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《When Sweat Drips Faster, We Boil》海老原イェニ
東京都美術館に展示された海老原イェニさんの作品は、三連結のキャンバスによる大画面で銭湯の情景を描き出す。中央のパネルには戸惑いの表情を浮かべる女性が立ち、左手には争うような二人の姿、右手の湯船には二人の女性が描かれる。一人は口元を手で隠しながら目配せをし、もう一人は中央の女性に視線を投げかけている。奥のガラスの仕切りの向こう側には、さらなる人影が湯船に浮かぶ。混雑した銭湯の空気感のなかで、中央の女性の戸惑いが際立つ構図だ。
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この作品は東京藝術大学の学内展でも強い存在感を放っていた。絵画棟のアトリエを埋め尽くすスケール感は、東京都美術館という公共空間でも揺るがない迫力を保持していた。湯船や洗い場の描写は写実的でありながら、その空間構成は現実の銭湯とは異なる。心象風景として再構築され、パノラマ的な広がりのなかで、それぞれの要素が自然な配置を獲得している。登場人物たちの繊細な表情は、この特異な空間への没入感を深める効果を持つ。
作品の背景には作家自身の異文化体験が横たわる。13歳で来日した海老原さんにとって、銭湯との出会いは強烈なカルチャーショックだった。見知らぬ他者との裸の共同空間、蒸気に満ちた異質な雰囲気、そこで交わされる何気ない会話。この体験は単なる戸惑いを超えて、自身の文化的アイデンティティを問い直す契機となった。本作は、日本画における女性の入浴図という伝統的主題を参照しつつ、現代における文化的アイデンティティの複層性を探る試みとして読み取ることができる。
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特筆すべきは、作品が提示する視点の二重性だろう。画面は銭湯という日本的な空間を描きながら、同時にその空間を異文化の目で観察している。タイトル《When Sweat Drips Faster, We Boil》が示唆するように、この作品は身体的な熱気と社会的な緊張が交錯する場として銭湯を捉えている。中央の女性の戸惑いを軸に、画面全体は微妙な動きに満ちている。周囲の人物たちの視線や仕草は、異質なものを受け入れる/排除するという社会的な力学を沸騰寸前の緊張感のなかに描き出している。
現代のグローバル社会において、文化的アイデンティティの単一性を前提とする思考は、もはや現実に即していない。しかし「もう日本人だね」という言説に象徴されるように、私たちの社会には依然として、文化的帰属を単純化して捉えようとする傾向が根強く存在する。海老原さんの作品は、銭湯という極めて日本的な空間を通して、そうした文化的アイデンティティの複雑さと、その受容をめぐる現代的な課題を浮き彫りにしてい。
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