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根本彰『アーカイブの思想 言葉を知に変える仕組み』読書メモ


アーカイブというのは知を活かすための仕組みである。

アーカイブとは、ドキュメント(文書)を保管し、後世も含む他者へ知識を伝搬することである。ドキュメントあるいは文書は、他者に知識を移転するための仕組み、記録はドキュメントとは区別される。

日本で図書館の役割が受け入れられておらず、司書という職業が確立されていないのは、知を蓄積して活かすという考え方が十分に理解されていないからではないかと思わざるをえません。(P.10)

文書(あるいはドキュメント)の役割が希薄になったとき、情報伝達の仕組みが沈殿していき、ポスト・トゥルースや、ファンタジー・ランド化のようなことが起こるのかもしれない。

ファンタジーランド化に至る発想は、SIDE COREの展示を見ていて気が付いた。


そして、リモートワークになって痛感したのは、言葉にすることができない人が多いということ。思い返すと、ミーティングが好きな人は説明が下手だった。ボディランゲージも含めて、ようやく意思疎通ができる。会議室で過ごした時間が成果だと考える人もあったかなと振り返る。

アーカイブというと歴史、置き去られたものと捉えてしまうが、非常に今的な内容であった。

図書館は知を一度蓄積して皆で共有して利用し、新たな知を構築する仕組みです。(P.26)

図書館の整備、そうしたものへの現状認識からはじまる。

図書館を整備してもそれ自体は社会全体の経済的な富を増やすことはありませんから、市場中心の考え方からは迂遠な方法と見なされます。日本で図書館の位置づけがはっきりしない理由はこの辺りにあると思われます。(P.26)

現代アートを学ぶ前、企業人としてコストあるいは市場原理にとらわれていた考え方。

そうした考え方に、がつんとくる一言。大学院で学ぶ以前から、図書館は利用していたけれど、自分で買わなくていい読書の補助機関くらいにしか考えていなかった。


アーカイブの思想を語るときに、このように書物を構成する文字の成り立ちやそれを支える歴史や文化的背景について考える必要があるのです。(P.28)

三つのレイヤーからなる日本の書き言葉。

日本が古来からもっていた自然信仰、仏教の伝来からみられる思想。古来から往来もあり文字も輸入した中国文化からの影響、明治維新後の欧米からの文化・技術・科学などの知識、文化の受け入れ。

歴史的な見地からも見られるこうした三層構造が日本にある。言葉という観点からは、ベースのひらがな、その上に漢字、カタカナやアルファベットが、更に上に表現される。

古事記は漢字で表記されるが、口語を書き留めたもの、ひらがなのリズムで読むということを知った。



第一講の方法論を共有する部分、これまでの学びをまとめるかのような簡潔な整理が行われている。

言語の透明性、言語として書かれたものは、その意図を伝えることができる。"読書百遍義自ずから見る"という三国志の記述を引き合いに出すが、そうはならないという問題提起がある。そして、言語論的転回では、事実から始まるのではなく、言葉から始まる人文社会学の学問についても接続する。

書き手はそこに一定の文字を書き付けることによって一つの世界を構築し、他方、読み手はそれらの文字列を読み取る行為によって自分の世界を構築するわけで、両者が一致することはまずないということになります。(P.29)

だから、世の中面白いのかもしれない。

冒頭に投げかけた僕の疑問に応えている。丁寧な説明も、リテラシーが揃っていなければ意味がない。


図書館情報学とは知の発生とそれがどのように伝搬していくのかということであり、言葉について、メディアについては、それを検討するものである。メディアを通じて、どのように知が伝搬していくのか。

メディアの効率性だけに目を奪われているとすべてがネットで解決可能という考え方になってしまいます。(P.31)

アーカイブの持つ力について説明しているテキストがある。

アメリカの首都ワシントンに連邦の国立公文書館(The National Archives and Records Administration: NARA)があります。ワシントン自体が独立戦争の後にできた政治的な都市であり、連邦政府が成立した根拠を都市自体が演出していると考えられます。(中略)そのなかで国立公文書館がひときわ重要な施設であるのは、そこの展示室には、独立宣言、合衆国憲法、そして憲法を補う人権条項である権利章典の3つの文書の原典が展示されていて、誰でも見学できるからです。これこそがアーカイブズの思想を示す最良の例でしょう。これらを眼前にしたアメリカ人は、自らが住まう国の出発点にこれらの文書の公布があったことを文字通り体感します。本物のみがもつ政治的効果がそこに働いていることは言うまでもありません。(PP17-19)

知を伝達する仕組みと共にアーカイブが持つ力について説得力がある。アーカイブが持つ本物という力、これは別に研究してみよう。


文化は移入されうるものです。人と人との交流、人の移動、そしてそれを記述した書物の移動とその翻訳といったものがこのような文化の移転の要因となります。(P.43)

こうした文化の移入をトランスレーションスタディーズと呼ぶ。この本に詳しそう。


学問と文献、知を深めていく。

古典文献の研究を通し、神や人間の本質の理解に立ち返ることを求めました。(中略)欧米で書誌学や文献学が重視されるのは、この時期までの古典的な文献の伝わり方がきわめて複雑でありながらも、もっとも初期のものに戻って考えるという態度で一貫しているからです。その際に、人文主義者は文献と文献の在り方を詳細に明らかにすることを通じて人間の本質に迫るという学問的態度を突き詰めようとしました。(P.46)

ここからデカルトに繋がる。



第三講は話し言葉と書き言葉について議論が展開される。

話し手から広がる世界における共通言語がヴァナキュラー(vernacular)な言語です。ヴァナキュラーを強いて訳せば「土地固有の」という意味合いになります。土地の人たちがコミュニティや同じ生活圏で、互いのコミュニケーションのために用いていた言葉でした。書き言葉以前はもとより、書き言葉が現れても多くの人はそうしたオーラルな世界のなかに生まれ育ち老いていきます。(P.54)

確か、言葉をテーマにはしなかったけれど、文化というテーマで修士1年目の課題にマイルドヤンキーの話題を書いた。恐らく今では違ったレポートに仕上がるだろうけど、学問って自分の中でも繋がっていく。


書く行為というのは、白い紙に墨を落とし、蝕を表していくという事。紙から筆を通して伝わる手の感覚によって書くことを調整していく。漢字一文字一文字に意味を持つ象形文字、筆蝕という身体感覚はタイピングによる記録という行為によって失われていく。

書く行為が宗教的であるとともに身体的なものであることに伴う性格が失われていったのは確かでしょう。(P.59)

タイピングでは、英語はタイプしたものがそのまま文章となって現れるが、ローマ字変換やピンイン変換(中国語)では、書く(タイプする)という行為にワンクッション置かれることになる。

機械的な感覚が、文章を表すときについてまわる。直接的に文章をタイプできることと、文字変換を意識しながらの文章作成とでは、明らかに考えたこと、言おうとしたこと、書こうとしたことににギャップが生じてしまう。考えたことと、言おうとしたこととの間にもギャップがあるのだから、それを書き留めて、他者に伝えるとなると、相当なハードルになるのだろう。

筆記、身体性として、真っ先に思い出すのはハシグチリンタロウ



古代ギリシャの図書館には上演台本も収蔵されていた。こうした書物は写本などにより世に伝えられる役割を持っていた。一方で文書・記録はオリジナルが重視され、前述したアメリカ建国の証拠は、それが力を持った事例と見ることができる。

一回しかない歴史的事象の証拠をそのまま伝えるのが文書・記録であり、これを管理するのがアーカイブズであるのに対して、コピーを繰り返して多くの人に読まれ伝わっていくことを前提にしているのが書物であり、それを管理するのが図書館だということです。(P.77)

今のネット社会は、流通する情報を管理する者が不在である。ややもすれば検閲の問題にも通じる。SNSを提供する企業が、そうした流通の管理という側面もあるが、検閲以上に、マーケティングの問題なのである。

再演を繰り返す古代ギリシャの演劇、再演されるたびに脚色されていた。紀元前338年からアテネの執政官を務めたリュクルゴスは公式版を定める政令を出した。

原典の保持とその後の版との関係を記録するという、後に図書館が担うことになる役割を果たしていたことを示しています。(P.79)

謎に包まれるアレクサンドリア図書館については、遺物が見つかっていないにも関わらず重要視されている。それは、その図書館の存在について多数の書かれた記録が存在するためである。

書かれたもののみで語られるこの図書館が西洋の歴史のなかで重視されることそのものが、西洋的な人文学の伝統を言い当てているということができるでしょう。(PP.79-80)

Google八分なんて言葉もあったが、何かが行われた行為や痕跡というものが失われたら、それは存在していなかったことも同じなのだろうか。

マンガのアーカイブ、結果としての作品は残るが、そこに込められた知は、如何に保管されるのか、そんな話をゼミ同級生とした。


話し言葉によって変化するヴァナキュラーは、数えようがない。山岳国家スイスでは、同じドイツ語であっても、ひとつ谷を越えれば言葉が通じないことがあるらしい。日本もテレビの普及によって話し言葉がかなり統一化されたということを別の場所で耳にした。

ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体 imagined communities」

愛国心をもって同じ言葉を話し、同じ国歌を歌い、同じ共同体に所属しているという意識は人工的につくられたものであり、実は想像の産物でしかないという議論です。(P.83)



ユーラシア大陸の東西の文化が交換された。戦争によって捕虜にされ、その当時極秘とされていた紙の製法が東から西に伝わった。そのころグーテンベルクの活版印刷が現れ、紙と印刷機とが出会い、印刷物として書物が流通する素地が整った。これが宗教革命へも繋がっていく。

ひとりひとりの信徒が直接神とつながることが可能になり、教会という媒介の必要がなくなるからです。ルターはしばしば「印刷機は神からの贈り物」と言ったとされています。(P.85)

知の共有は、新しい世界を創り出す。

19世紀から20世紀になって、物としての効用があるわけでもない美術品が多額の金額で取引されたりするのは、ルネサンスの古典的美の再発見に加えて、その後の新たな知的関心あるいは美的関心が共有されて強まると、新しい市場が形成されたからです。(P.98)
この時代に当然のようにあった、世界の拡がりとともに世界を知りたいという欲求が、同時に世界を所有したいという行為につながていった(P.98)

世界がどうなっているのか、それを手に取れる形で提示した現代アート、そうした作品群が、今やアートマーケットの大部分を占めている。そうした理由は、この辺りからも求めらる。


ロゴスについて整理しておきたい。ちょうど日本におけるロゴスに関する文章がある。

日本社会でロゴスがどのように機能しているのかを問うことから始めてみましょう。ロゴスをもっとも広い意味で理解すれば、一定のコミュニティの構成員のあいだの言葉のやりとりにおいて、真理や倫理、合意といったものが生み出されることであり、その意味では日本人も言葉を用いてそのような真理、倫理、合意を確認し合っていることは間違いありません。しかしながら「磯城島の大和の国は 言霊の助くる国ぞ ま幸くありこそ」(柿本人麻呂『万葉集』)と詠まれた日本では、言葉はときにロゴス以上の特別の力をもつことがあります。(P.213)

日本が公文書館法があるにも関わらず公的に記録を取らなかった。文書による説明責任を放棄したとも取れる行為が政治で行われてきた。責任逃れというだけではなく、意思決定構造や、コミュニケーション構造にあるという。それが日本特有のロゴスである。

言葉が真を明らかにするためのものではなく、古代から続く日本的レトリックの道具であったことに遡ることができるでしょう。(P.215)

議論が難しいと感じるのは、こうした背景があるのかもしれない。

情報システム構築プロジェクトに長いこと携わってきた。ドキュメントを持って仕事をする、作るドキュメントを定義する、ドキュメントのテンプレートを用意する。コミュニケーションパスを定義し、会議体を作る。そうしたことを実施してもプロジェクト内に知を流通させることが難しい。ある時、昔ながらのマネージメントをする上司と話しをした。「誰が誰に何を言うかがプロジェクトの動きに大事だと」確かにその通りなんだけど、お互いに腹を探るというか、密室的というか、そうしたプロジェクトマネージメントはうんざりだなと思った記憶がある。



Google検索、マーケティングによってゆがめられてしまう情報検索、それがデジタル上にアーカイブを作ることの難しさ。確かに便利な技術というのは錬金術的な方法に結び付く。検索意図の裏には広告ニーズがある。

書き言葉による知の伝達に重点を置いていた本書は10講に入り、デジタル領域に議論が拡張していく。そして、いわゆるマルチメディアに言及が及ぶ。写真、画像、音声、動画、これらは個人的なものから上映、公共電波に乗りブロードキャストされるもの、音楽演奏、舞台、パフォーマンスなど極めて多様になっている。

日本におけるロゴスの表現について、人間関係における相互主義、図像や音声、身体的なコミュニケーションを重視するマルチメディア性、そして書かれたものについても書き言葉と話し言葉のギャップが大きいことなどの特徴が指摘できます。これらは西洋的なロゴス表現と異なっているところであり、図書館や文書館などのアーカイブ装置がうまく働きにくい理由ともなっていました。(P.262)

デジタルに拡張されたメディアコミュニケーション、マルチメディアのアーカイブに注目が集まる。

コミックやゲーム、アニメなどのマルチメディアは日本が得意とする分野として世界中で注目されていますが、それらが単なる輸出商品としてだけではなく、新たなロゴス表現のメディアとしてどの程度説得力をもってアーカイブ化されるかについても戦略をもってすすめる必要があるでしょう。(P.262)

確か社会人になりたての頃だったと思うが、その当時の社長がプロジェクトチームに外国人プログラマを入れないと言っていた。理由は「ドラえもんを知らないから」ということ。今のD&Iの世界を想像もできないような排他的な考え方が1990年代にあったと思う。それは別の問題として、ドラえもんを知らないというフレーズが端的にここでの議論を表していると思う。これは知というよりも文化であり、のび太的な対応と言えばニュアンスが通じてしまうことだと思う。そうした時に、これは文化のアーカイブなのだろうか。それはどうやって実現するのだろうか。


学術コミュニティでデータが注目されていることともからんでいます。データは知を構築するもっとも基盤的な素材です。(P.263)

今までは研究者が個別に所有、管理していたが、スマホの閲覧、日常の買い物、SUICAの利用、そうしたものがデータとして収集され、大量のデータベースとして作られた。

それは、前述の引用の通り、知を生み出す源泉となる。しかしながら、利益を生み出す卵でもある。


この本から数珠繋ぎで、次に読みたい本が繋がった。


キュレーターの語源は世話をするという語から転じたようで、それから管理者、そして面倒をみていくことを意味するようである。図書館、博物館、美術館などで収蔵品を収集、保管し、公開し、次の世代へ伝えていく。書物として流通するものを知として認識し、ライブラリーに加えていくこと。知を編纂すること。

これはアートにおけるキュレーターが新たな美(他に適切な語が見当たらないため美としたけれど、美的関心だけでは無いと思う)を発見することだと考えた。

ただし、2017年のPower 100 に見られるようにキュレーターに支配されていたランキングに変化が起こった。(ただ、翌年以降また変わっている。)弱体化してしまったアート界を再度活性化させるということだった。

初期のコンセプチュアルアートの活動は、美術館の権威を疑うところから始まった。同時代のそうしたアートを対立するような姿勢では中々収集がなされないことが想像できる。また、アーカイブとしての収集は、そうした態度だけでなく、マーケットによる価値付けによっても困難にしている。それは別の話としてnoteにまとめよう。

既に価値の定まったものを展示していた美術館、ピエール・ユイグは生物を持ち込んだ。そうした挑戦は、美術館にとってのアーカイブの意味の再考を促していたように思う。

台北ビエンナーレ2020は哲学者であるブルーノ・ラトゥールをキュレーターに迎えた。ユイグも出展している。見にいくことはできなかったけれど、カタログは入手したので、じっくり考察したい。





展覧会のアーカイブをどうするべきか、そうしたことがキュレーターと呼ばれる活動が出てきたあたりから言われている。例えばリオタールの非物質展。

展覧会が意味を持ち始めた。

こうしたことのアーカイブ、少し日本ではアーカイブの議論が大変ではあるが、漫画のアーカイブやキュレーションについてゼミ生の発表を参考にさせてもらいたいと思う。

アン・リーのプロジェクトは、オランダの美術館がアーカイブとして収集するべきと判断して丸ごとコレクションに加えた。


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Tsutomu Saito
いただきましたサポートは美術館訪問や、研究のための書籍購入にあてます。