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《私、わたし》芹澤美咲
芹澤美咲さんの《私、わたし》を東京学芸大学の卒展で見た。芹澤さんの作品を初めて見たのは、haco - art brewing gallery -で個展をしていたときだった。何の前情報もなく立ち寄ったギャラリー、全てポートレートであり、支持体や表現が微妙に異なる顔に囲まれた空間、これは全て自画像なのだ、ということを理解するまでに、それほど時間はかからなかった。
自画像、涙を浮かべ、あるいは流している顔に囲まれた空間、その空間に対峙している時に、他者の顔でありながら、自身の内面世界をえぐるような柔らかい圧力が感じられた。
ラカンの言う自我思想の入れ替えが起こったのだろうか。
その後懇意にしてもらっているREIJINSHA GALLERYでグループ展に参加することを知り、それはFACE展の選抜ということで、活躍しているのだなと認識していた。
卒業制作で提示されていたのは大型の作品《私、わたし》
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大型のキャンバス(1940×1620)に顔と全身が描かれている。この大画面に構成された顔、まっすぐにこちらを見つめる瞳があるが、その大きさから目が合うという感覚よりも包み込むように見つめられている感覚になる。鼻が描かれない自画像が多い印象だが、この作品は鼻が描き込まれ、その頭が赤くなっていることから泣いた後の顔だろうと想像する。大きく見開かれた目と口は無表情であり、何かを待っているかのような印象を受ける。顔の前の人物の影には揺らぎがあり、これは自画像の作家を表しているのか、鑑賞者(=他者)を表しているのか、解釈は見ている者に委ねられているようである。
作品の隣にはポートフォリオ、日記と思われるもの、本作品の制作にあたってのステートメントが置かれている。ステートメントを読むと、人影について、髪の色についても記載されている。デカルトの言うような心と体の二元的な部分や、社会や他者との関わりについて書き綴られていた。
芹澤さんの作品を見る時、ラカンの鏡像段階効果を想起する。
ただ、ステートメントからは西洋的(デカルト的)な精神と身体の二元的な認識と格闘している様子が読み取れた。
私を、アイデンティティを首尾一貫したひとつの人格として捉える。それは無理があるとして、分人という考え方を提案している。少し乱暴な説明だけど、分人とはコミュニティの数だけ私があるということ。
ステートメントには、これからも作品をつくりつづけるとあった。
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