第10回円空大賞展 - 希求、未来への創造 - @岐阜県美術館 鑑賞メモ
岐阜県美術館で、円空大賞展が開催されており、訪問してみた。
円空とは美濃の国出身、全国を巡り、数万体の仏像を残したという。その仏像はノミで掘られ、荒々しくも慈しみのある姿。
岐阜県出身の友人は、円空仏と呼んでいた。
羽田澄子の映像作品《薄墨の桜》。とある地方の集落の映像。そこにある桜。それだけで荘厳な印象を受ける。アーティストが編集しているが、日常が特別な感じが映像からも伝わってくる。
岐阜県根尾川の上流にある不思議な桜の物語。
安藤榮作のドローイングと彫刻の作品。
不動明王、そこから川の流れのような人型の川。墨画で燃える村。一目見て東日本大震災を連想する。ただ、墨画と人型から、こうしたカタストロフは、太古から連綿と続いてきた自然と人との関わり。詮無きことなのか、人のレジリエンスなのか、思考を大きく広げる。震災から9年、こうした時間が、あの大災害を冷静に見ることができる心理状態を作り出していくのかもしれない。
僕のルーツの半分は東北にある。小さなころは家業が飲食店だった関係からか、東北からの出稼ぎの大人達に遊んでもらっていた。親族も青森、秋田、福島にあるらしく、最近まで秋田に父親の家があったらしい。そうした馴染みから東日本大震災の衝撃は、とても大きなものだった。
アニミズムから仏教への変遷、融合しただろうと考えていた。最近読み返している火の鳥、太陽編。
壬申の乱の時代に、仏教伝来。古来からの地神との闘争、勢力争い、権力争い。そうした手塚治虫の世界観を見て、あらゆるものの前提をもう一度疑ってみる。そうした視点が必要であると再認識。こうした認識は、ビジネスにもとても役に立つ。ビジネスモデルの検討、ストーリーテリングや、カスタマージャーニーの想像と妄想、これこそリカレント教育、アート思考で得られたビジネスへのフィードバックではないだろうか。
池田学の《誕生》。超絶技法ではあるけれど、そんなことよりも複雑な心象世界をぶつけた大画面に圧倒される。ボルタンスキーの展示で見た永遠にも感じられる反復、やり方は違うけれど、共通な何かを感じた。
どういった心境で円空は全国を巡り、仏像を彫っていたのだろうか。人間の歴史で繰り返される疫病、飢饉、戦争、そうしたものと関連があったのか、典雅なものだったのか。江戸時代初期に生まれ、戦国の世から泰平の世に向かっていく時代。この展覧会は、そうした時代へと連れて行ってくれた。
同時に開催していたコレクション展、完全に撮影禁止の展覧会。
リー・ウーファンの《照応》に釘付けになる。以前は、抽象画については何も分からないとばかりに2秒程度で通りすぎていた。それが、抽象画から、いろいろなメッセージを受け取る。大分、アートにはまってきた…
ジェゼフ・アルバース《形成 分節》は、色と形との組み合わせの実験をしているような作品だった、その中にあったピンクと黒の幾何学模様の美しさに見とれる。
出自がよく分からなかったけれど市民ギャラリーが開催されていた。気になった作品があったものの、購入とか、そうしたコマーシャル的な所とは切り離しているみたい…
小学生向けアート思考のワークショップを実施していた会場が静かになっていた。名残の空気感がいいな。美術館の空気感。
ふと見るとミケランジェロ《ピエタ》のレプリカがある。ヴァチカンで見たピエタとは大違いであった。造形は同じはずだろうに、なぜ、これほどまでの差が出るのだろうか。造形的には同じはずなのに。
本物が持つ存在感、力強さ。そうしたものを感じさせないのは何だろうか。わざわざヴァチカンまで赴き、見上げたことに心境的、身体的な負荷がかかっていたためか。作品に込められた霊感の欠如か。