「何者でもありたくない。」のではない、何者かをその時々で選べる自分が心地いい。
社会人になってから、まったく労働と折り合うことができないまま6年目となった。
中堅にあたる年次であるが、何もできないし、何も後輩に教えられるようなことはない。偉ぶって先輩風を吹かす気にもならない。
最近休職もどきをして、一時的に仕事や人間関係から離れたら、ちょっと回復した。
ひとりで山にも籠った。観光地でもある渓谷のゲストハウスでゆるゆると語り合って、夜更かしして、楽しかった。価値観も生まれも育ちも年齢も違う人が一堂に介して、交わって話すことができて心から楽しかった。会社だって、年齢や性別、階級など、さまざま差異はあれど、社会においておおよそ似たような道を辿って、同じ組織にいるから、変な同質性に絡み取られて窮屈である。
私は渓谷で、自分は社会で固定化された何者かになりたいという欲が、願望が、まったくないことを明確に自覚した。出世したいとか、仕事のできる人間になりたいとか、そういった類の考えが毛頭ない。
かといって、仕事が完全に嫌いかと言われればそうでもないし、でも、週5で毎日8時間程は働いたり(繁忙期はもっと)、PCカタカタし続けたり、同じ組織に属し続けたりすることも向いているとは思えない。
労働に疲れて帰宅しても、結婚して2年程の夫に細かく家事のダメ出しをされたり、保留にしている家事を早くやるよう怒鳴られるように急かされたりして、労働者という自分からも、既婚者、妻という自分からも逃げ出したくなってたまらなくなる。
時々、労働者でもありたい。
(お金が必要だから)
時々、労働者ではありたくない。
(心が死ぬから)
時々、既婚者でありたい。
(生活を助け合える人がいるのは心強いし、恋愛市場から降りられるから)
時々、独身でありたい。
(所帯染みた考えや習慣に自分が向いていなくて窮屈になってしまうから。日本での結婚はまだまだ家父長制と隣り合わせなところがあるから)
その時々、自分が何者かを選べる状態が、自分にとっては一番精神が安定する。固定化されると苦しくなってしまう。
それがやっと、切実にわかった、社会人6年目。
社会で働く人は、みんな何者かになろうとしているのにね。何者かになることに喜びが見出せる人は、労働者、会社員に向いている人だと思う。それは一つの才能であり適性であって、すごいことだと思う。
(今思えば、新卒で就活する時は、自分も何者かになろうとする振りをしていたな。)
今後の人生をまだまだ生き続ける上では、この自分の価値観を忘れないようにしたい。その記録。
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