「半分幸せ」の考察ー私たちは「選ばされて」いるのかもしれない。
市川望美です。
この言葉は、2012年にPolarisが主催した女性向けキャリア講座の中で、ある女性が発した言葉なのですが、なぜだか私の心に深く深く刺さりました・・。
その言葉は何気なく発せられたもので、私も少し違和感を覚えたものの、「そんなことないですよー!」と言う程度だったのですが、この”半分幸せ”という言葉は、その後も折に触れて思い出され、結局これをテーマに修士論文(*)まで書きました。
セミナーでもこの言葉をよく引用するのですが、ご本人がそれを知ったら、すごく驚かれるんじゃないかな。もしかしたら、その言葉を発したことすら覚えていないのかもしれない。それほど何気ない言葉でした。
なぜこの言葉がそんなに引っかかるのか。
その瞬間はさらっと流したのに、その後もずっとモヤモヤしていたのはなぜか。この言葉の何がそんなに引っかかるのか。
まず最初に思ったのは「子どもが学校や幼稚園に行っている時間に自らお金を払ってキャリアのことを考えに来る人たちが、なぜ”半分幸せ”と感じないといけないのか」ということ。「スキルや経験もない私たちみたいな主婦」と言わせてしまうこと。社会から押し付けられる「キャリアブランク」「キャリアロス」に対する怒りのようなものだったかもしれない。
子どもを産み育て、暮らしてきた時間を一方的に「ブランク」「ロス」と表現されてしまうことに対する怒り。私が生きてきた時間を勝手にそう扱わないでほしい、むしろその「ロス」の時間で得た経験こそが、未来に向けた大きな力となったのに・・!!そう思った。
そんな風に、私個人は「勝手にいうな!」と思えたとしても、多くの人は「実際そうだし・・・」と思わせてしまうだろう。私だってきっと、元の世界に戻ろうとしたら、多分「ロス」で「ブランク」なのだから。けもの道におりたから「勝手に言うな」と言えているに過ぎない。その状況に対するフツフツと沸き上がる思い。
また、子どもを持つことが「働くかやめるかの二者択一」になってしまうから、どっちかをあきらめなくてはいけない。一度降りたら戻りにくい。就労を継続した人と離職した人の生涯獲得賃金は、2億の差が出る(ニッセイ基礎研究所の調査へリンク。大卒女性の場合。)。
手放すのには覚悟がいる。私も短大卒業後9年間正社員として勤めた会社を退職するとき、「二度とこの境遇には戻れない」と覚悟をした。
だから、幸せであっても、「残り半分の中での幸せ」になってしまうのだ、という、日本の就労環境、労働慣行への怒りのようなものだったかもしれない。
あるいは、特別なスキルや経験がなくても、誰でも、多様なはたらき方や暮らし方を選択できるようにしたいという思いからPolarisを創業しているので、「スキルも経験もない私たちみたいな主婦は」という所に反応したのかもしれない。
もしくは、その場にいた皆さんが「そうだよねー、私たちなんてね、、」と同意していたことがショックだったのかもしれない。え、みんなそんな風に思っていたの・・・?と。
私は、育児中の女性向けのセミナーに講師として呼んでいただくことも多いのだけど、そこで「半分幸せ」の話をすると、ものすごく多くの人に刺さる言葉だということを実感します。「スキルも経験もない主婦」とは異なる立場だったとしても、「何かをあきらめ、残り半分の中での幸せ」であるということに同意や共感を示す方も多かった。
「男も一緒だと思います。でも、男は”半分幸せ”という発想がないかもしれませんね、他の選択肢があることに気がつかないようにしているから」とおっしゃった男性もいました。「男ならでは」の課題もありますよね。
「全部幸せ」がいい、という話でもない。
私たちは人生の様々な場面で取捨選択をする。思い通りにいかない事だってあるし、選んだ結果納得いかない事だってある。人生とはそういうものだとも言える。
また、論文を書く過程で「選択」に関するインタビューをした結果、「その時はそう思えなかったけれど、あれがあったからこそ今がある」というようなエピソードが沢山ありました。自分が主体的に選んだことではなく、偶然もたらされたものに大きな意味がある、ということは多かれ少なかれ経験があるのではないでしょうか。
スタンフォード大のクランボルツ教授らによる「計画的偶発性(Planned Happenstance Theory)」という理論でも、「個人のキャリアの8割は、予想しない偶発的なことによって決定される」とされているし、イノベーションを起こすためには、偶然性や偶発性が必要ともいわれている。
だから、「半分を全部に!!」と言いたいわけではないのです。むしろ「全部」にしちゃわないほうがいいとさえ思う。誰かの何かが入り込む「余白」や「あそび」がある方が、人生はクリエイティブだ。
そんな風に深堀をしていくと、「あれ、半分でもいいのかな・・?」と思ってなんだか研究テーマがずれて行ったりしたのですが、そこでやっと気がつくのです。「半分」問題も大事だけど、目を向けるべきはそこじゃない。
なぜ、「半分幸せでもありがたいと思わなくてはいけない」のか?
いったい、誰に?問題はむしろこっちじゃない??と・・・。
問題は「半分」じゃなく、ありがたいと思わないといけないと「思わされる」こと。
この記事にも書いたように、日本においては「ママであること(子どもを持つこと、育てること、子育てしながら働くこと、、、etc)」は色々難しいことが多くて(”色々”はばっさり省略)、自分自身がどうしたいのかということよりも、子どもを持つ母親としてどうすべきかということに意識が向いてしまうことが沢山あります。
2002年から2011年頃(Polaris創業頃)までは、子育て支援のNPOで、乳幼児の親子を対象とした場づくりに関わってきたのですが、そこでは沢山の「子育てのリアル」に出会ってきました。毎日の暮らしの積み重ね、日常。
そこでは多くのモヤモヤや葛藤に出会いました。
「本当はこうしたいけど、今じゃない」「いつかやろう」と、ちょっと「横置き」したり、「こんな風に思うなんて自分はダメな母だ」と、罪悪感にさいなまれたり、そういう考えを起こさないように全力で蓋をしてみたり。
できない自分を発見してしまうのは辛いし、誰かを恨んだり、羨んだりもしたくない。だったら、そっとしまって、無いことにすればいい。
「自分とは違う」「あの人は特別」「そんなのあり得ない」と処理することもあったと思います。
誰かに無理やり押さえつけられて、強要されたわけじゃない。むしろ、自分がそうしたほうがいい、そうしたいと考え、選んだ人の方が多かった。(「本当は働き続けたかったけど、辞めることにした」というのもそう)
だけど、どこかでその”抑え込み”を自分の中に感じて「モヤモヤする」。
何度考えても、この悲しみがなぜなのかうまく言い表せない。
これでいいはず、これがいいはず、幸せなはずなのに。と。
自由に自分らしい何かを選んだ人に出会って初めて、自分が抑え込んでいたものに気がつく、そういうことも多々ありました。「え、それやってもよかったんだ・・・」とか「え、そんなやり方あったんだ・・・」とか。
自分で選んだはずなのに、どこか選ばされたように思う・・。
他者の物語
そんな経験もありながら、論文を書くにあたって色々勉強した結果、どうやら世の中には、私たちを抑圧したり支配的なふるまいをする「マスター・ナラティブ」「モデル・ストーリー」と呼ばれる「社会の物語」や、自分自身を縛る、否定的な物語、思い込みのストーリーである「ドミナント・ストーリー」があり、それぞれの物語を参照しながら生きていることを知りました。それらを「社会的文脈」と言ったりします。社会のあるべきをくみ取って、自分の人生のストーリーラインを組み立てるということです。
私たちは、自分の物語を生きられていないのではないか。どうやったら、自分の言葉を、物語を紡ぐことができるんだろう。
個人の「意志」や「選択という行為」の問題ではなく、「個人と社会の関係性」の問題であるという切り口を見つけて、やっと「半分幸せ」という言葉との向き合い方が決まっていったのでした。
他者の物語ではなく、自分の物語を発見し、それぞれの物語を尊重するための手がかりを得るために、ライフストーリーという、「それぞれが生きてきた物語」を語ることや、その中にどんな文脈が隠されているのか。
・・・
はたらき方や暮らし方の選択肢を「増やす」ことも大事だけど、それ以上に「選ぶ力」と「選択肢を行使する力」が重要です。
Polarisでは、社会の選択肢を増やすことと、一人一人の選ぶ力を獲得することと、多様な選択を尊重しあえる社会やコミュニティをつくることに取り組んでいます。
「半分幸せ」を語るともっともっと長くなってしまうので、少し中途半端だけど今日はこれまで。このテーマによるオンラインゼミや、一人一人のライフストーリーに触れる座談会なども開催していますので、ご興味がある方はぜひご参加くださいませ。
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