本の山
いつか訪れる別れの日
山ほどあるということでもないけれど、辞書・辞典や学術書を含み、そこそこの量の書物が実家には所蔵されている。
本棚は三か所ある。ひとつは1階に、あとの二つは2階に。2階の一つは、所謂作り付けのものだ。
大半は亡き父が遺したもの。それに加えて、自らの学生時代から結婚直後ぐらいまでのもの。他に家族のものが若干含まれる。
本には書き手の理念や思想といったものが、当然のことながらギッシリと詰め込まれている。
そして、それに加えて、読み手の思念も目に見えない形で吹き込まれている。下線や書き込みといった目に見える形のこともあるけれど。
そんな風に感じているから、新旧や種別などに関わらず、本を床に直置きしたり、足蹴にしたりすることには強い抵抗感があるし、ましてや、ゴミとして廃棄するなどもってのほかと考えて来た。
しかし、我が家は書店でもなければ、自分自身が収集家でもない。勿論、資料館や図書館である筈もない。庭に蔵もなければ、コンテナボックスもない。
我が家は、あくまでも一般家庭・一般家屋であり、即ち自らの人生を超えてまで、書物(に限ったことでもないが)を所蔵しておくことは、まずもって物理的に適わないのである。
だから
買い揃えられた書物たちは、いつか処分の憂き目に遭わざるを得ない。我が家の書棚に並んだ時点で、そのような運命を課せられてしまうのだ。まぁ、都市部の殆どの家において、そういうことだと思う。
そして、それらの書物のうちでも、特に自らの趣味嗜好のみに基づいて入手し、金輪際引き継ぐ相手が現れることのなどないものについては、自らの生あるうちに何とかしなければならないのだ。
先程と言い方を変えれば、購入した時点で、それは義務としてその書物に同梱されているのだ。
そう考えると、自動車購入時にリサイクル料を支払うのに似ていなくもない。
似てないか。
処分の仕方
本棚の書物をまとめて取り出してみる。
読めないほどに劣化しているものは皆無と言っていいだろう。保存状態は悪くない。
シミが出来ているものや、外装が日に焼けて掠れてしまっているものはあるけれど、ひどく黴てしまっていたり、虫食いで朽ち果てているものなどは全くない。
これを紙ゴミとして捨てるのか?
違う気がする。
かと言って、全てが古書店に買い取って貰えるレベルとも思えないし、買い取り対象外のジャンルのものもあるのだろう。
買い取り出来ないものとは、一体どんな種類の書物なのか調べてみる。
ネットで複数の古書買い取りサイトを確認してみたところ、一般論としては、辞書や百科事典、中学や高校の教科書・参考書、そして雑誌類、これらは買い取って貰えないようだ。
勿論、例外はあるだろう。
例えば、人気雑誌の創刊号とかをオークションサイトに出品すれば、そこそこ傷んでいても、読めるものである限り値段は付く。場合によっては販売価格を大きく上回る。
そこに思い至ってしまうと、画一的に取り扱うべきではないように思えて来てしまう。
欲が出て来た、と言われてしまえば、おそらくはその通りなのだろう。
そして、今の時代、書物を箱詰めにし、その重量に耐えつつ自ら古本屋に持ち込むような必要などない。宅配便で送ったり、回収に来て貰ったり、電話一本、メール一通で解決出来てしまう。
便利な世の中だ。欲望の念をそそられる世の中だ。
したがって、ここでの問題は、売却可能なのか、売却すべきなのか、それとももっと別の手段を模索すべきなのかという、その判断なのだ。
ゴミとしての廃棄は最も楽な手段だけれど、先に述べたように、それは最後の最後まで留保しておきたい。
まずは、目の前に積み上げた書物を、埃を払って手に取り、一つひとつ、その行く末を吟味してみる。
そんなことをしても徒労に過ぎないのかも知れないけれど、その一方で、もしかしたら臨時収入になるかもとか考えてもしまう。
浅ましいことだろうか。それともセコイとでも言うのだろうか。
いや、それは違う。純粋に、書物に対するリスペクトなのだ。
どこかの誰かの手に渡り、その人の為になるのであれば、売却は欲望に基づいた行為にあらず。再利用、利活用への道筋を切り開くことへと繋がって行くのだ。
やはり言い訳か。
まずは仕分けること
方針が決まれば、あとは粛々と作業に勤しむのみ。
まずは、百科事典。
後年に発行されたような、それだけでひとつの本棚を占領、若しくは専用の本棚付きで売っていたようなものではなく、比較的小さく纏められたものだ。
勿論全て揃っているけれど、内容の古さは否めない。新しい項目がないことは、加除式ではない書物の泣きどころだ。
これは処分させてもらうこととする。
次に全集もの。
所謂、誰々(作家の名前)作品全集とかではなく、様々な古典を集めたシリーズものだ。
ネットの情報では、誰々全集は引き取りしてくれない所が多い。でも、これは違うかも知れない。とりあえず保留する。
次に地理関連の学術本や事典類。
これは自らの学びの足跡。仮令、二度と活用しないまでも、捨てるには忍びない。それに、歴史的価値でもない限り売れもしないだろう。
なので、これも保留する。
場合によっては、自らの人生が終わった後に家族に処分してもらいたい。本に限らずそういう行為は極力排除していく方針だけれど、少しだけ例外は作っておきたい。
そのひとつが、自らの人生の軌跡に繋がるもの。それは、生きている間だけでも残しておきたい。それを処分してしまうことは、自らの人生を消し去ってしまうかの如く思えてくる。
ひとつふたつ足跡があっても、罪にはならないだろう。
だから、保留する。いや、保存する。
次に辞書・辞典類。
英和辞典や和英辞典といったものは、ネット情報を信じて全て処分する。確かに、40年も50年も前の辞書を誰も使いはしないだろう。百科事典と同様に、と言うか寧ろそれ以上に、内容だって使用に耐えられないだろう。
ただ、故事ことわざ辞典とか類語辞典とか、これは活用の可能性があるかもしれない。内容が時代に左右されにくいと思えるものは保留とした。
今やインターネットのおかげで、いつでもどこでも簡単にあらゆるジャンルの事柄を調べられるとは言うものの、調べた結果の出典としての価値があるように思えるからだ。
そう思っているのも、今だけのことかもしれないけれど。
そして雑誌類。
これはどう考えても紙ゴミなのだろう。燃やせるゴミというカテゴリーだ。
ただ、パラパラと捲ってみると結構興味深い。
そもそも定期購読ではなく単発で購入した雑誌たち、何かしらの目的がなければ買う訳はない。つまりは、内容に興味があってこそ買っているに違いないのだ。
だから、当たり前かもしれないけれど、今読んでみても面白い。時の流れが趣味嗜好を左右するとは限らない。ついつい読み込んでしまう。
これも保留だ。
残るは文庫本、クイズ本、洋書などなど。
どうしたものか。
新たな選択肢
迷っても仕方ない。ここまでに保留したもので手元に保管しないものは、買い取りサイトや店舗に持ち込んでみるか。
ただ、もう一つの選択肢がある。「かながわキンタロウブックキフ」だ。
これは神奈川県の施策のひとつで、読み終えた本を送るとブックオフが査定し、その結果にブックオフが一定の上乗せをした額が指定寄付になるというシステムだ。
説明を読んでみると、除外されている書物が意外と少ない。どうせ買い叩かれる(言葉が悪いかな)のであれば、何らかの寄付になった方が少しでも後味が良い。
そういう問題か?
書物はまだまだある。ここはひとつ試してみよう。
まずは段ボール箱を入手せねば。
(つづく)