探索と利用のジレンマのVRChat
「探索と利用のジレンマ」という言葉がある。
あなたは荒野で食料を探している。未知の土地を「探索」し、やっとのことで食べられる野菜が生える苗を見つけた。それを家に持って帰り庭に植えてみる。
十分に満足な栄養を含む野菜が摂れるようだ。
ここで一つの決断を迫られる。
あなたは以降定住し、畑を耕し、その野菜だけを「利用」し続け確実に確保する安定的人生をずっと送ることもできる。
しかしながら、もっと美味しく栄養のある野菜や果物の種と出会う可能性に賭け、荒野に繰り出すこともできる。
無論、探索は危険だ。
そんなことをすれば彼方の地で飢え死んでしまうかもしれない。
自宅の庭でそこそこの栄養状態で満足してたほうが良かったという結論になるだろう。
だが、これまで想像もしなかったような、奇跡か天上の食べ物かと見まごう何かに、極稀に出会える可能性を捨ててもよいのだろうか?
「探索と利用のジレンマ」である。
これは、VRChatにおけるパブリックとプラベのジレンマとそのまま言い換えられる。
VRChatを始め、Visitorの時に初心者案内をされ、何かのきっかけで気の合うフレンド数人に会い、そのままそのフレンドとプラベに籠もることもできる。
それがこの上なく幸せに確信されることは想像に難くない。おそらく人生で初めて出会えた、リアルのしがらみや属性から離れた、純粋に話や価値観の合うフレンド達だ。
とはいえ、あなたはある時点で、危険な香りのする疑問にふと行き当たる。
人間関係というのは、はたして毎日固定メンバーで集まり話し続けて数年以上を過ごせるほど、お互いの興味が尽きず、関係や話題のネタは摩耗しないものだろうか。家族や学生時代の親友すら、一定期間の濃密な交流のあとは距離を取り、たまに話すことで長期的な関係を維持するものだというのに。
閉じたコミュニティで人間関係の不協和が生じてしまったら、その後の居場所はどうなるのだろうか。
しかしながら、再びパブリックに繰り出すのは極めて危険な冒険である。
荒らし、ナンパ、無神経、その他相性が悪くSAN値をすり減らしてくる魑魅魍魎が跋扈する地であると長老から伝えられる。
そんな修羅の土地を、これまでのところ心地の良いプラベを出て探索するべきだろうか。新たな良き出会いの僅かな可能性に賭ける価値はあるのだろうか?
正解は一つではない。
個人の経験、価値観、過去の学習やトラウマ、人生観に従い、最も納得できる戦略を選択し、結果吉が出ることも凶が出ることもおおよそ運と確率の問題だ。
あなたにとって、吉が出やすい探索の方法論をすでに見つけているなら幸いである。
パブリックの危険極まれること、人心の乱れ甚だしいこと、茫漠不毛たることに失望し、プラベこそ居場所であると確信するなら尊重されるべきである。
ここで少しでも、一部の人にとって吉の出る確率が高い場所が「哲学カフェ芳紅 (ぽこ) 堂」だとしたらワールド作者としてはこの上ない喜びである。
欲を言えば、ここに来れば吉が頻繁に出るために自ずと探索し続けたいようなパブリックの居場所であるならば。
全てのVRChatterに良き探索と利用のあらんことを。
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