文系人間、会話と読書って似ている
今日、たまたま一緒にお弁当を食べていた女の子。あまり一対一で話すことはないけれど、思いの外おしゃべりで面白い子だった。
彼女は私がたまに文系の思考を感じさせる発言をしていると言う。
私は自分で文系の人間だと思っているが、他の人から見てもそうらしい。
彼女曰く、私が現代文の話をしている話をしているときに文系ぽさを感じるらしい。たしかに、私にとって現代文の読解というのは面白い。決して得意な訳ではないが。
彼女も文系タイプの人で、文系トークが盛り上がった。模試で出た現代文が面白いと思えば家に帰ってその文の引用元を調べたり、古文で見た和歌から書き手の気持ちや情景を想像したり。次々と出てくる文系あるあるに共感が絶えない会話だった。
私が文系であることの理由の一つに、私は本を読むのが好きだ。
小説のページを捲るたびに一歩一歩、小説の世界へと入り込んでいく。ありふれた言い方ではあるが、新しい世界が広がるような感覚がある。
文系理系というのは、何をおもしろい!と感じられるかの方向性だと考えている。
私は、数学者のいう美しい数の魅力があまり分からないように、彼らもまた、私が特別でもないただの言葉一つに感動することが理解し難いのかもしれない。
だがその違いがあるから楽しい。自分と違う感性の人間と話すということは私にとって、その人そのものを理解する行為なのだ。まるで小説を読むように、その人の生き様や思考を感じられる。
小説を読む行為は、自分の中に新たな選択肢を増やすことだとも言える。
誰もが一度は、小説を読んだあとの体が軽くなったような、何かを得たような満足感だったりを感じたことがあるのではないだろうか。人と話すことも然り。
話を少し戻すと、一緒にお弁当を食べた彼女のように共感が多い会話というのはとても楽しい。仲間を見つけた嬉しさの背景には、自分がマイノリティではないという安心感があるのかもしれない。悪い言い方をすると、似たもの同士の会話というのは得るものが少ない。
前述したような新しい世界を知ることというのは、価値観が離れているほど起こることなのだ。
だから私は、自分と価値観の違う人や価値観の合わない人と話すことが大好きだ。
価値観が違う人との会話というのは、言葉を交わすたびに新鮮なアイディアが供給され続ける。
似たもの同士、違うもの同士の会話にはそれぞれ別の楽しさがあるのだ。
また、彼女と一緒に話したいと思った。今まで話したことがない人と話すたびに、もっと前から話していたかった!と思う。まだまだ話したい人が沢山いる。
明日は誰とお弁当を食べよう。
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