トウヒコウ
家族が寝静まるのを、息をひそめて待っていた。
荷物は、前の週から準備していた小さなバッグ一つきり。
靴は手に持ったまま、音を立てないようそっと、玄関の扉を開ける。
施錠の音が思いがけなく響き、一瞬息がとまる。
いつも一緒だったパンダのぬいぐるみは、置いていくことにした。
覚悟は決めたから。
あなたはそう言ってくれたけれど、その言葉を素直に信じるほどわたしは幼くはなかった。
かといって、冗談と決めつけられるほどに、冷めた大人でもなかった。
だから、うちから最初の角を曲がったところにあなたの姿を確認した時は、言葉もなく、
ただ泣いた。
あなたはひどくうろたえ、困惑していたけれど、大丈夫。ただ嬉しかっただけだから。
二人分を合わせても、ずいぶんと少ない荷物だった。
考えてみれば、まだ大人になりきれない私たちの人生経験では、本当に必要なものなんてそう多くない。
今まで、ごちゃごちゃしたデコレーションに紛れて、気づかなかっただけ。
離れた路上に停めてあるあなたの車まで、並んで、ひたすら黙って歩いた。
二人の吐く息が白い。去年の今頃は、確かもう雪が降っていた。
あなたが友達の友達から安く譲り受けたという車は、まっすぐ走るのが奇跡というような
代物だった。
エンジンのかかりも遅く、当然エアコンもなかなか効かない。
お互い歯をがちがち鳴らし、震えながら、顔を見合わせて笑う。
寒いね。
あなたが言った。
どこか寒くないところへ行こうか。
少し照れながら。
あなたはハンドルを握り、正面を向く。
どこへ行くのかは、わざと聞かない。
行き先がどこであっても、あなたと一緒であるなら、それでいい。
今、わたしたちは、正しくないことをしようとしているのかも知れない。
でもそれは、間違っているとは限らない。
わたしがあなたを見失わないように。あなたがわたしを見失わないように。
今できることを、するだけ、それだけ。
あなたと引き換えに、わたしが置き去りにしてきたり、なくしたものたち。
わたしと引き換えに、あなたが捨てたり、失ったものたち。
次々浮かぶ残像を追いやって、わたしは目を閉じる。
明日まで、ただ眠ろう。
あなたの隣で。