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あなたが僕を忘れても   #ナイトソングスミューズ

「優しい息子さんを持って、吉田さんは幸せね」
ヘルパーの岩田さんの言葉に、母は嬉しそうに頷いた。
「そんなことないですよ」
僕は曖昧な笑みを浮かべて否定するけれど、その言葉も岩田さんは僕の謙遜だと受け取ったようだ。
「ほんとに自慢の息子さんね。うらやましいわ」
母に笑顔で声をかけ、母もまた頷く。
僕は頭をかきながら、
「すみません。ちょっと飲み物を買ってきますね」
気まずさから逃げるように部屋を出た。

認知症患者を受けて入れてくれるこの介護施設に母が入所してから、まもなく一年になる。
それほど大規模でもなく、かといって設備が貧弱なわけでもなく、アットホームな雰囲気が母には合っているようで、ここに来てから症状が落ち着き笑顔も増えた。岩田さんを始めスタッフの人たちもみな親切で、僕はこの環境にとても感謝している。
けれども、時々考えてしまうのだ。
もう母は、二度と自分の家に戻ることはできないのだろうかと。
そして、僕が母と過ごせる時間も、それほど長くは残されていないのだろうかと。

母にとって、僕は優しい息子なんかではなかった。
ふたりで一緒に暮らしていた頃、僕は老いていく母から目を背け続けていた。

今日は何日だったっけ、何曜日だったっけ。
母が同じことを一日に何度も尋ねてくるようになったのは、いつの頃からだったか。
初めはただの物忘れだと気に止めなかった。でも、心のどこかでそれだけではないような気もしていた。
少しずつ噛み合わない会話が増えていく。母の時間軸がだんだんとずれ始めているように感じていた。
長く飲み続けていた持病の薬を忘れることが増えた。注意すると今度は飲みすぎることもあった。

もしかして・・・・・・。
僕はときどき頭をよぎる予感をそのたびに打ち消した。
あの頃の僕は、その予感が外れることを心から祈っていた。

どうか、母が大きな病気ではありませんように。
認知症なんかではありませんように。
どうか・・・・・・。

―――面倒なことにはなりませんように。

それは、母のためではなく、自分のための祈りだった。
僕が今、毎日母に会いにくることは、優しさからなんかではない。
ただの罪悪感だ。


ロビーの自動販売機でミネラルウォーターを買い、母の部屋に戻った。
岩田さんの姿はもうなかったが、僕が出ている間に母の着替えをすませておいてくれたらしい。僕が昨日買って持ってきたピンクのパジャマを着て、母はにこにこと笑顔を浮かべている。
「母さん、そのパジャマ似合ってるよ」
僕の言葉が聞こえているのかいないのか、聞いても理解できていないのか、笑顔のまま首を傾げている。
自分の洋服なんてめったに買わない母だった。化粧気もなく、いつも地味な格好ばかりで。若くてオシャレな友達のお母さんがいつも羨ましかった。
服くらい、化粧品くらい、僕が買ってやれば良かったんだよな。そんな簡単なことに気づくまでに、ずいぶん時間がかかってしまった。
過ぎ去った時間はどんなに手を伸ばしても取り戻せない。
母はもう、きれいな洋服を着て出かけることなんてできない。

人は覚えていたくないことから忘れていくと聞いたことがあるけれど。
もしそうなら、母は僕のこともっもう覚えていたくなかったのだろうか。
母の人生は、忘れてしまいたいことばかりだったのだろうか。

備え付けの机の引き出しを開けて、古びたくしを手にする。母がずっと大事にしてきたもので、今も使っているもの。母の持ち物はどれも古いものばかりだ。
頭にそっとあて、もつれた髪を優しくといてやる。
黒々と豊かだった髪はすっかり白く細くなり、くしが少し強く当たっただけで二本、三本と抜けてしまう。
抜けた髪をつまんで窓辺にかざしてみると、差し込む光をまとってキラキラと輝いた。
糸みたいだ、と思った。母の命を紡いできた糸みたいだ。


気持ち良さげに目を閉じていた母の身体が小さく揺れた。
「少し寝ようか」
声をかけ、手で体を支えながら、ゆっくりと母の頭を枕に持っていく。
横になった母はすぐに眠ってしまった。規則正しい寝息をしばらく聞いているうちに僕にも眠気がやってくる。

浅い眠りの中で、細切れに夢を見た。

僕は高校生だった。
夜遅くに帰った僕のことを、母が台所に座ってずっと待っていた。
ただいまも言わずに二階の部屋に戻ろうとする僕を呼び止めて母は言った。
浩。自由にしたいなら自分の行動に責任を持ちなさい。

僕は小学生だった。
つまらないことでクラスメートとけんかになった僕は、言い返せない悔しさから相手をつきとばしてしまった。
学校に呼び出された母は相手の親に何度も何度も頭を下げた。
浩。何があっても人を傷つけてはいけないよ。

僕は小さな子どもだった。
その日は僕の誕生日で、母は僕の名前を呼んで言った。
浩。誕生日に何が食べたい?
僕がリクエストしたのは、母が作った豆ごはんだった。
ケーキと豆ごはんが並んだ食卓はちぐはぐで変だったけれど、とても嬉しかった。

夢の中で、母は何度も僕の名前を呼んだ。
久しぶりに、僕は母が僕の名前を呼ぶ声を聞いた。


肩を揺すられて目が覚めた。
「起こしちゃってごめんなさいね。でも、夕食の時間だから」
岩田さんが食事のトレーを持って来てくれていた。まだ少しぼんやりした頭で、お礼を言って受け取り、
「あ」
茶碗によそわれた豆ごはんを見つけて、小さな声を上げてしまった。
「良かったわね。吉田さん、豆ごはん好きだもんね」
母は岩田さんの言葉ににこにこと頷いた。そして茶碗を手に取ると、僕の方へ差し出した。
「え?」
「あら吉田さん、息子さんに食べさせてあげたいの?」
岩田さんの言葉に母はもう一度頷く。

「浩」

母が、はっきりと、僕の名前を呼んだ。
これは夢の続きだろうかと思った。
おずおずと母から茶碗を受け取ると、母は安心したように微笑んだ。

人は覚えていたくないことから忘れていくと聞いたことがあるけれど。
母はたくさんのことを忘れてしまったけれど。
それでも、僕の母であることはやめないでいてくれていた。

いつまで二人は一緒にいられるだろう
いつまでだって
いつか朽ち果てる世界で
あなただけは 存在してる


母さん。
いつか、そう遠くないうちに訪れるだろうさよならの時まで。
優しい息子にも、自慢の息子にもなれなかったけれど。
僕はあなたが僕を思ってくれている以上に、あなたを愛する、ただの息子でいようと思うよ。
母さん。

Muse杯に参加しました。
やっと見つけた私の彗星の尾っぽは、このお話になりました。

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