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おかえり。またね。

白い布に包まれた小さな木の箱は、膝に乗せるととても軽かった。
小柄だった祖母は、あの頃よりずっと小さく、軽くなって帰ってきた。


おかえり。
そして、またね。


元気な頃の祖母はお寺参りが趣味で、毎週のように大阪や京都の寺院に参っていた。
出かけるうちにたくさんの友人もできたようで、そのひとたちと連れ立って出かけることが増え、行動範囲がどんどん広がった。
国内の有名なお寺は訪ねつくしたかもしれない。
70歳を過ぎてから、日本を飛び出し中国やインドにまで出かけるツアーに参加して、両親や私を驚かせたこともあった。
ずっと昔には、祖父が戦争で亡くなったニューギニアにも行ったこともあるらしい。
田舎のおじいちゃんの墓は空っぽやから、と。壮大な墓参りだ。
スケールの大きなひとだった。


アルバムを見せてもらったことがある。原色の派手な寺院の前でポーズを取っていた。
ビデオも見せてもらったことがある。大きな象に乗っていて手を振っていた。


小さい頃は、よく一緒にお寺参りに連れて行かれた。
おかげで私はすでに自分の法名まで持っている。今の名前より華やかな、どちらかというとキラキラネームだ。
若いひとが少ないお寺に子どもがいると、小さいお孫さんやのにえらいねえ、と周りの人やお坊さんからよく声をかけられる。
面倒だと思うこともあったけれど、嬉しそうな祖母の顔を見ていると、まあいいかと思えた。
帰り道、疲れてすっかり無口になった私に祖母はいつも、今日はありがとね、と折り畳んだ千円札を私の手に押し込んだ。
ふくれっ面をしていた自分が恥ずかしくなって、そのお金はずっと使えなかった。


いつの間にか、祖母と出かけることがなくなった。
いつの間にか、私は大人になり、祖母は私が思う以上のスピードで年を取っていた。


ある日、祖母が転んでけがをした。
骨折はしなかったけれど、この入院がきっかけで祖母の足は急激に弱ってしまった。
大好きな寺参りにもほとんど行けなくなり、花がしおれていくように、祖母は元気をなくしていった。
風邪を引いたり、お腹を壊したり、体調を崩すことが増えた。病院で検査をすれば必ずどこか良くないところが見つかった。
お寺参りの代わりに病院通い。通院には、毎回父が車を出した。母は毎日食事を作り、祖母のもとに届けた。
祖母は申し訳なさそうだった。それでも、私たち家族との同居も入院も嫌だと言い続けた。
戦争で夫を亡くし、父が家を出てからずっとひとりで生きてきた祖母は、誰かに頼ることを何よりも嫌うひとだった。


一年ほど通院を続けたが、病院の命令に近い勧めで祖母の再入院が決まった。
元気になるための入院ではないことは、私にも何となく分かっていた。


りんご、食べたいねん。
珍しく体調が良かったのだろう。その日、見舞いに来た私に祖母が言った。
その頃の祖母は、もうほとんど食事をとれなくなっていた。
細い腕に点滴の針がいつも刺さっていて、それがきっと祖母の命をつないでいた。


りんごくらい、いくらでも買ってくる。
翌日の見舞いは、両親と三人で向かった。途中でスーパーに寄り、りんごを探した。
父が手に取ったのは、売り場の中でいちばん大きくて高いりんごだった。


病室で、母がそのりんごを剥いて祖母に差し出した。
前日とはうってかわり、調子が悪そうな祖母は、横になったままりんごを受け取った。
小さくカットしたりんご、その半分も祖母は食べきれなかった。
それでも、甘いな、おいしいな、と何度も繰り返し、残りを私たちにしきりに勧めた。


そして。
母に向かって、あんたは日本一のお嫁さんやわ、ありがとう、と言った。
父に向かって、あんたは日本一の息子やわ、ありがとう、と言った。
私に向かって、お父さんとお母さんのことをお願いな、と言った。
その日の夜、容体が急変した祖母は、連絡を受けて病院に駆け付けた私たちを待つことなく息を引き取った。


気の強い祖母は、苦しんでいる姿を私たちに見せたくなかったのかもしれない。
呼吸器をつけていては、私たちにちゃんとさよならを言えないかもしれない。
祖母は自分の命が間もなく終わることが分かっていたのだろう。
だから、昼間に全部伝えてくれたのだと思った。
母に感謝を、息子に感謝を。そして私に、祖母の思いを受け継ぐことを。


通夜と告別式が終わり、祖母の棺は霊柩車ではなく迎えに来た黒っぽいワゴン車に乗せられた。
祖母は生前、まだ元気だったころに、献体の手続きをしていたらしかった。
父も母もそのことを知っていて、祖母との約束を守った。葬儀の準備をしながら、ずっと前に祖母から預かっていた書類を探して泣きながら電話をかけていた。
遠ざかる車に手を合わせて見送りながら、私は、祖母はまた旅に出かけて行ったのだなと思った。
祖母の遺骨が戻ってきたのは、それから三年後のことだった。


やっと帰ってきた祖母を迎え、家族だけで小さな法要をあげることになった。
月命日にお世話になっていたお寺のご住職に連絡をしたところ、納骨の前にしばらく自分の寺で預かり法要をしてくれるという話になった。
ちょうど大きな修繕が終わり、新しくなった法堂を毎月お参りに来てくれていた祖母にも見てもらいたいと。
両親は住職の好意に感謝して遺骨を預けた。
祖母はまた旅に出てしまった。
帰ってきたと思ったら、また行っちゃった。祖母らしい、と両親は笑っていた。
結局祖母が自分で手配していた北御堂の納骨堂に入ったのは、さらにその一年後だった。


ふと思う。
もしかすると祖母は今もどこかを旅しているのではないかと。
今ごろは、八年前に亡くなった私の母も一緒に。
私は祖母の夢も、母の夢もめったに見ない。父に聞いても見ないという。
体が弱くてあまり遠出ができなかった母を、色んなところに連れていってあげて欲しい。そうだったらいいなと心から思う。


でも、たまには帰ってきてもいいんじゃない?
ほんの少し、夢に出てきてくれるだけでいいから。すぐにまた出かけてもいいから。


そうしたら私は、おかえり。またね。って、手を振って送り出すから。

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