ロシア文学会プレシンポの後に

10月25日のロシア文学会プレシンポにわざわざ足をお運びくださり(あるいは遠方より想いを寄せてくださり)、ありがとうございました。そして時間の感覚が狂っていたために皆さんにご迷惑をかけてしまい、申し訳なかったです……

最近たまたま戸川純さんの仕事を聞き直していたのですが、ヤプーズにこういう歌詞があります。

ヒトは知能だけで 動物の頂点に
立ったんじゃないんだ ヒトは凄いんだよ

ヤプーズ「ヒト科」(1999)

この後には「さあ もう 傷は癒えた 立ち上がり いざ行かん」とあり、「凄い」はこの場合人間に備わる恢復する力のことを言っているようです。戸川という人のパーソナルヒストリー(自殺未遂とか――この曲の数年後には妹の自死もありました)を踏まえて1999年に至った彼女がごく素朴に「ヒトは凄いんだよ」と確かな信念を持って歌いあげるところにわたしなどは圧倒される感覚を覚えます。(わたしなら「動物の頂点」というヒエラルキーの言語を選ぶかといえば別を選ぶと思いますがそれはさておき)

そして文学とは、人文学とは、あるいは芸術とは、「ヒトは凄い」を知能の外で確信させるための営みなのではないでしょうか。

何か詩を読んで、絵を見て、音楽を聴いて、「ああ、すごい…」と言葉を失ってうずくまった経験はないでしょうか。その時わたしたちは、人が、単なる人(ヒト科)でありながら成しえたことのあまりの尊さに対してこうべを垂れています。そこで知能はもちろん介在しているかもしれないが、それよりも多く、作者と読者は魂のうえで交感をしています。(司書や翻訳者とはできるだけ目立たないようにしてそのあいだをつなげる者のことです。)

ヒトはすごくないが、でもやっぱりすごい。あるいはロシア文学はすごくないが、でもやっぱりすごい。と言ったとしてもそれは矛盾していることにはなりません。そういうことが実際に生の中では何度も(何度か)実感されるし、そういう瞬間のためにわたしはぎりぎりのところで人に絶望せずに生きていることができているような気がします。雑な人間中心主義(「万物の霊長」的な)に加担するつもりはないが、でもやっぱり「ヒトって凄い」と言っていかないと、人間は大切なものを失ってしまうと思う。わたしを含め、人文学に賭け金を置いた者が成すべきことは――「使命」といってしまうと照れくさいが――ここにあります。

尊敬する田中美津さんの「かけがえのない、大したことのない」という言葉は絶妙なバランスでそのことを言い当てています。たぶん、この二つの言葉のあいだには「そして」も「しかし」もそぐわない、ただ「、」で結ばれるのがよいのでしょう。

(ちなみにライヴ盤では2回目のリフレインが「ヒトは業や煩悩が動物の頂点に立つほどあるんだ」とアレンジされていて、「凄い」に込められたもう一つの意図をうかがい知ることができます)

前田和泉先生をはじめ、今回のプレシンポジウムを企画し、準備・運営し、また温かく迎えてくださった皆さまに心から感謝します。そしてもちろん、高柳さんと藤枝さんにも、ありがとうございました。いずれまたどこかで。

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工藤順 / Нао Кудо
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