お忙しいところ失礼いたしますの件
だれかに文句をいいたいのではなくただ事実についてかくのですがさいきん「お忙しいところ失礼いたします」「ご多忙の折恐縮ですが」ということばをうけとることがふえた(じぶん比)実感がありただじぶんはわりとしっくりこないというかこれは「忙しい」のだろうかとおもうことがおおく、というのは「忙しい」ということばでじぶんがイメージするのが 商社 サラリーマン 朝帰り 二時間睡眠 だからかもしれず、しかしじぶんのせいかつをふりかえってみると仕事にいっているまたは生活のためにつかう以外のじかんはほとんどすべてほんやくのことにあたまがいっているしほんやくのことをしているときはほかのことをなにもできないし(たとえばメールにへんしんできないもうしわけない)、まあきゃっかんてきにいって忙しいほうなのかもしれないですしかしすいみんはしっかりとっているしじぶんのすきなことをずっとやっているのでそれについてはしあわせです、なるほどそうかんがえてみるとたぶんじぶんのなかで忙しいとしあわせはうまくおりあわない概念になっているのかもしれないと思った12月でした。(こちらに配慮してくれてそのような修辞を使っているのはよくわかっていて、ありがたいとおもっています!)
たいして本をよめないようになってひさしいけれど、そして本の生産側にあしをつっこんでいる者としてそれについてたいへんいたたまれないきもちもあるのだけど
ことし読んだ・買った本のなかでいちばんすきだったのはこちらです
(ぜったいにアマゾンではなく、書店で買いましょうね)
ちなみにわたしは京都のともひさしさんというほんやさんで見つけ買ったのですがその経験もふくめて最高の本にめぐりあってしまったなあという実感があります
この本を文学や詩にふくめられないような文学や詩をわたしはひつようとしません
わたしはこどものころから球技などがとてもにがてだったのですが、それは、スポーツ全般がにがてだったという以上に、球技という「条件」のもとで敵と味方にわかれてたたかうものがたりをそのときこどもらは演じることになるのですが、敵であるはずのAさんとわたしの目があうとき、わたしはそこに「敵」ではなく、わかりあえ、ことばもかわしあえるはずのAさんのなんというか「人格」?をみてしまい、「そんなに(たとえばボールが)ほしいならあなたにあげたい」とおもってしまうからです。それはたいへん気まずいけいけんでした。わかってくれるひとはいないでしょうか。
にんげんと目があうときとどうぶつと目があうときでは、感じがぜんぜんちがうということを、どうぶつと目をあわせたことがあるひとならわかってもらえるのではないでしょうか、(わたしはどうぶつと目をあわせるときけっこうことばで埋めてしまうこともおおいのですが、ないしんそれはちがう!ともおもっています)、そしてそのときの経験をこの本は語っています、そこでどうぶつはどうぶつではなく、にんげんもにんげんではない、ただそこに(宇宙空間にといってもいいかもしれない)生命がふたつ、あるということです
『チェヴェングール』のコピョンキンならもしかしたらこんな本を書いたかもしれないなとおもったりもしました。ちなみに、エコクリティシズムからプラトーノフを読もうとしているAlex Thomasさんというイギリスの若い研究者のインタヴューもよみ、こまかいところはともかく方向性としてはさんせいです
以上、メモでした。