エイトは『サンデージャポン』でのレギュラーの座が惜しいとまでは思っていないだろう
『自民党の統一教会汚染2 山上徹也からの伝言』を上記と同じタイトルでAmazonにレビューを書きました。以下が本文になります。終盤で太字にしたのはnoteで加筆した部分です。
『自民党の統一教会汚染』第2弾の購入を決めたのは、比較的読み応えがあった『週刊ポスト』での対談が収録されていたからだ。
特に太田光との対談は期待通りだった反面、鈴木エイトに若干ではあるが太田への忖度を感じないわけでもなかった(まさか生活のために『サンデージャポン』でのレギュラーの座が惜しいと思っているわけではないだろう)。
「標的を変えた山上徹也には一貫性のなさを感じるんです」
「(安倍の)警備がもっと厳しかったら今度はどこを狙ったのかと。彼は社会を恨んでいるので、大量殺人を犯す可能性だってある。結局は凡庸な殺人者なんですよ」
というのが太田の山上論なのだが、凡庸かどうかは別として大量殺人者を犯す可能性があるというのはいくらなんでも飛躍し過ぎだ。目的が違う。山上の標的はあくまで影響力のある人間であり、大量殺人者はどちらかというと自分の影響力を行使したいと思っている方なので、標的に影響力があったりするとかえって困るのではないか?山上自身は影響力のある標的者をピンポイントで変更するので大量殺人にはならないはずだ。
「他に手段がなく、身を賭して行動したという視点も持つべきでしょう」とエイトもやんわりと返したものの、さらに山上批判を続ける太田にそれ以上の反論はしなかった。
〈対談後記〉では「山上被告に対する捉え方に私とは相違点があるものの、2世問題の議論が進んでいることは共通して評価している部分だ」と述べている。
”統一教会擁護派”とされている太田にも宗教2世を救いたい思いはエイトと同じであるし、”信教の自由を奪おうとしている”とされているエイトにも現役信者を救いたい思いは勿論ある。おそらく常に逆張りする傾向のある太田が現役信者の人権を護ろうとしているのはそれほどおかしなことではないのだが、今回は後手後手になっているようにも思う。よく言われることなのだが、太田が統一教会への解散命令請求に首を傾げていたのは、信教の自由が剥奪されるものと思っていたのではないか(実は筆者もそう思っていた)?
そもそも解散命令が出てもなくなるのは宗教法人格と、それによって税制上の優遇措置などがなくなるだけで(統一教会は困るが)、信教は自由のままなのだ。
よってこの対談では太田が解散命令のことを持ち出すことはなくエイトが「共通している」と述べているように太田に恥をかかさないように2世問題の件は上手く擦りあわさせている。
〈対談後記〉でも太田とは山上についての捉え方が違うと明かしたように、太田に言えなかった思いを終章の直前である第3部深層編で吐き出している。
山上は太田が言うような「只の凡庸な殺人者なのか、それとも圧倒的な”絶望”に直面する中で身を挺して統一教会という組織の悪質さや政界との関係を世間に知らしめ、社会を変えた英雄、「社会変革者」なのか」と。
エイトは銃撃事件を肯定しているわけではない。山上の減刑を求める運動自体は否定しないものの山上に自分を投影することで個人の思想信条を展開することに違和感があることも吐露している。
「あなたは山上さんのおかげで有名になったのだから、減刑運動に参加する義務がある」という声に応えるまたは反論するために上梓したというわけではないと思うが、そこを収録したということは万分の一の理由にはなっているのだろう。
その一方安倍晋三のビデオメッセージ出演そのものも反社会的な宗教団体にお墨付きを与えていることやそれによる票の差配への疑惑を追っていたエイトも、安倍と教団との関係は単なる山上の「思い込み」ではなかったことも示している。
「苦々しくは思っていましたが、安倍は本来の敵ではないのです。あくまで現実世界で最も影響力のある統一教会シンパの一人に過ぎません。」という既に有名な一文は、エイトとのやり取りで生まれたものではなく、事件前日にルポライター米本和弘へ宛てて投稿した手紙の一部であることも正確に記している。
それにしても「山上徹也の伝言」というタイトルの強烈さは異常だ。
本書の主題であった『自民党の統一教会汚染2』はいつのまにかなりを潜め、副題だったはずの「山上徹也の伝言」に座を奪われ、実際にエイトも事件の9日前に山上とメッセージのやり取りをしていたという衝撃の告白すらしているのだ。
エイトの衝撃的は告白はさらに続く。なんとメッセージのやり取りの存在を知ったのは事件から半年後の2023年1月だった(厳密に言うと自身が返信していたことも失念していた)ことだ。なおライター米本が自分に送られた手紙に気づいたのも事件から5日後の7月13日だったことも明かしている。山上の弁護人によると山上からのメッセージ自体は明確に銃撃事件を示唆するものではなく、2人のやり取りも教団イベントの照会が中心で、詳しい内容まではここでは記さないが知的で紳士的であり丁寧な文面だったと一目置いている。後付けながら同じ対象を”追究”していた山上に敬意を払いたいことが見て取れるのだ。意地悪な見方をすると本書もエイトのアリバイ作りとも言えるのだが。
現に、山上が”紳士的”ではない部分は、自分とのやり取りの中にはなかったと言いたいのか、事件の約2年前の犯行を示唆するような個人の投稿にも触れているのだ。個人的にもエイトが語る映画『ジョーカー』との近似性に興味はあるが、惜しかったことがある。
〈オレが憎むのは統一教会だけだ。結果として安倍政権に何があったとしてもオレの知ったことではない〉(2019年10月14日2時35分)を持ち出すのであれば、「ネトウヨとお前らが嘲る中にオレがいる事を後悔するといい」(2019年12月7日23時13分)も出して欲しかった。
「自分が有名になるために事件が起こることを知っていながら放置していたのだろう」
「鈴木エイトが事件を起こるように仕向けた」
「鈴木エイトがビデオメッセージを見せて山上を嗾けた」
これは人から知られるようになってから投げつけられた言葉で、エイト自身も想定していたと明かしている。山上の動機面の裏付けを担保できる唯一の存在が自分だということは認めていて、「私には彼の裁判の行く末を見届ける責務がある」とまで言い切っている。 そして「どんな人物であれ人が亡くなること、統一教会の被害者を犯罪者にしてしまうことに比べたら、私が無名の”ジャーナリスト”であり続けることを選択する」と訴えるが、本書はこれを言うために出したと言っても過言ではないのだろう。
ひろゆきとの対談のことを言い忘れていた。普段言っていることとほとんど変わらないので特にコメントすることはないが、「国葬反対の意見が増えることを見越して岸田首相はわざと遠い日程にした気もしてきます」という発言だけは注目に値する。
と当時はそう思ったが、当時とは2022年9月9日にプレジデントオンラインに収録したときのことである。だが今からすれば更迭するかしないかも順序立てて考えることも難しい岸部に高度な権謀術数を期待することが間違っている。よりにもよってこの時期に本書が刊行されたことを一番呪っているのはひろゆきなのかもしれない。