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鎌倉殿の13人〜草燃えるへのオマージュを込めて

 ー小四郎だ。ー
 ちょうど2年前、大河ドラマ第61作に『鎌倉殿の13人』というタイトルが決まった時点で、『草燃える』(1979年)の視聴者は真っ先に松平健の顔が思い浮かんだだろう。13人と言われれば鎌倉幕府の”十三人の合議制”を意味し、『草燃える』の実質的な主人公で、源頼朝(石坂浩二)の死後、御家人同士の血みどろの戦いに勝ち残った北条義時(小四郎)が本作の主人公だと。

 また、同時に拭い切れない『草燃える』へのオマージュを抱いただろう。 ところがこの2年間三谷幸喜は同じ時代のこの作品を持ち出す気配がほとんどなかった。むしろ『草燃える』の前年に放送された『黄金の日日』(1978年)のことを時代が違うのにもかかわらず好んで取り上げる。こんなはずではと思ったが、開始直前に隠した対抗意識をやっと出してきたのか、インタビューで『草燃える』を「超える」、「上書きする」などと宣言するようになった(文藝春秋2022年1月号)。

 具体的に言うと、史実では頼朝の死因は落馬ということになっているが、三谷はそれに異議申し立てをするつもりらしい。これは『草燃える』を超えると言うより、『吾妻鏡』に反旗を翻すといった方がいいだろう。『草燃える』の脚本家であり、あらゆることにタブー無用だった中島丈博ですら、原作者永井路子と同様に頼朝の死については『吾妻鏡』に何ら申し立てをしていない。

 三谷が鎌倉時代に思い入れがあることは間違いない。過去の自作でも登場人物名に鎌倉時代の人物名を付けているのだから(『王様のレストラン』、『わが家の歴史』)。

 そして北条義時ー小四郎を演じる小栗旬も、『草燃える』全話に目を通したことは明かしているものの、「鎌倉という時代背景を大切にしている作品」と無難な発言に留めている(Voice2022年2月号、小説現代2022年2月号)。

 思えば幸薄い作品だった。全放送回が現存し、完全版ソフトも市販されている『風と雲と虹と』(1976年)及び『黄金の日日』とは完全に明暗を分けてしまった。それなのにこの『草燃える』は、NHKに残されていたのは総集編のみであり、通常放送回は1本も残されていなかった。が、当時のスタッフや一般視聴者の方々が家庭用VTRで録画した映像が提供され、かつNHKアーカイブスの呼びかけで寄贈が集まった結果、全51話の回収に到ったのだ。ただ全話はあるもののオープニングの欠損などの残存状況もあって、引き続き寄贈の呼びかけは行われているので、完全版ソフトの市販には到っていない。 CSの時代劇専門チャンネルでしか全話を観る機会がないので簡単には見れない埋もれた作品だ。珍しく長州を視点にした『花燃ゆ』(2015年)のときも同じ長州もので総集編しか残っていない『花神』(1977年)をほとんど取り上げてくれなかったことと同じだろう。現在NHKBSプレミアムで「大河ドラマアンコール」という枠で放送されている『黄金の日日』はそろそろ終わる時期で、本来ならタイミング的には『草燃える』がその次に放映されるべきなのだが、上記の理由もありこの枠での放送は難しい。それでも時代劇専門チャンネルの再放送では限界があるし多くの人に観てもらいたいのでなんとかならないだろうか、と思っていたら『黄金の日日』の後は『おんな太閤記』(1981年)になった。橋田壽賀子の追悼ということだろう。

 そうなるとせっかく奇跡の復活を遂げたのに未だに埋もれている『草燃える』を再生するには、本放送の『鎌倉殿の13人』が捧げるオマージュに頼る方法しかないではないか。
 
 ただ不安要素がある。
 三谷の作品の特徴の一つにウイキペディアに記されているように、「ハートウォーミングな人間讃歌が多く、露骨な社会風刺やグロテスクな描写、きわどいセリフは少ない」ことは筆者も同意だ。不得意分野という意味でもあろうが、上記の「露骨な社会風刺、グロテスクな描写、きわどいセリフ」という三谷にないこの特徴は、『草燃える』作品そのものとしか言いようがない。

 例えばである。ネタバレになるが、
 『草燃える』の冒頭(この時代にアバンタイトルというものはなかったが)は、平安末期治承元年京都の大火から始まるのだ。頼朝でも政子でも義経でも義時でもない。まして清盛でもない、何と都の盗賊(黒沢年男、かたせ梨乃)たちの集いから始まるのだ。いかにも意表を突いた出だしで、今の大河ドラマのような洗練さはなく、もっと泥臭かったが、それでもここが勝負どころと思って作っていたのだと思う。この大火に乗じて盗賊たちが京都御所清涼殿に忍びこみお宝を頂戴し、京都大番役がいない間に平家や公家に扮してザ・ニュースペーパーよろしく政治コントを展開していた挙句、やっと到着した大番役の北条時政(金田龍之介)たちを”東夷”とからかい易々と逃げおおせる。伊豆の弱小豪族の現実ということが自然に伝わってくるし、これぞ「露骨な社会風刺」だ。

 もう1点は、今や決してオンエアできない「グロテスクな描写」、人肉食の放映だ。人肉食の当事者は伊東十郎祐之、権力闘争に勝ち抜き頂点を極める小四郎と対をなす、もう一人の実質的主人公だ。設定では平家側である伊東祐親の庶子だが原作でも登場しない、中島が手を掛けて育てたオリジナルキャラクター、実はそのモデルもフィクションなのだが架空で最も成功した伝説的キャラクター、史上最高の架空人物と呼び声高くかの滝田栄が演じていた。坂東で反平家色を強めていくなかで、居場所を失い、源氏や北条や社会を恨み、殺戮と強奪を繰り返しながら、人肉食を食らうまで堕ちてゆくルサンチマンの体現者だ。そのルサンチマンを得て十郎は悟りを開くのだが、本作でそれが得られるのだろうか?

 「どす黒い時代を究めて明るく描く」と繰り返し三谷は主張しているが、こちらとしてはどうしてもあの時のように飢餓・憎悪・殺戮の3点セットを求めてしまう。もうリアルタイムではオンエアできない鋸引きや人肉食を渇望し、明るくしなくたっていい、 やはりあの嘘のない血生臭さが懐かしい、 と思わず叫びたくなってしまうのだ。

 これまでそのような人物を創作していなかった三谷が、その新境地を開くことが本作の一番の見どころだと思っている。

 逆説的に言えば、「どす黒い時代を究めて明るく描く」という三谷の宣言は、この不得意分野を乗り越えるためなのかもしれない。三谷は『黄金の日日』の脚本家市川森一の大ファンを公言しているが、中島へのリスペクトはあまり感じない。作風があまりにも違うからか?といっても『黄金の日日』だってヒューマニズムは当然あるが、風刺もグロテスクさも多分にある。実は中島は大河ドラマ最多作品者なので、三谷は密かに対抗意識を燃やしているのかもしれない。

 『草燃える』の出だしと比較して『鎌倉殿の13人』のアバンタイトルはどうだろう。まさか、小四郎が姫を馬の後ろに乗せて追手から逃げるシーンをそれに据えるとは誰も思うまい。おそらくあの奇をてらった冒頭が三谷にとっても勝負どころだったのだろう。後ろに乗る者は誰なのか?『草燃える』の視聴者は第4話「政子掠奪」の政子(岩下志麻)と十郎を思い出すが、少なくとも小四郎の後ろに乗っている”姫”は政子ではないことを予測するだろう。そして無情にもアバンタイトルは忽然と消えオープニングに変わってしまう。だが小四郎の後ろに乗っているのは八重姫でなく頼朝(大泉洋)だということを一体誰が想像出来ただろう。これにはやられたと思った。おそらく女装して逃亡する頼朝の姿は義仲の息子、清水冠者義高の未来の暗示を示したかったのだろう。

ともあれドヴォルザークの「新世界より」のBGMにのせて本作は走りだしていく。

 『鎌倉殿の13人』のアバンタイトルも期待通りに奇をてらってくれてはいるが、それでも今の所は『草燃える』に軍配を挙げたい。旧作のように閉塞感を醸し出し、庶民・下級武士・盗賊などなど底辺に生きる人間ドラマも展開してくれれば、筆者も掌を返すだろう。なんといっても70年代の大河ドラマは盗賊の宝庫なのだ。

 そのことについて一番期待しているのは梶原善演じる伊東家の下人、善児だ。八重姫が産んだ頼朝の子、千鶴丸を川に沈める実行犯だが、『草燃える』では二年後の話なのでそのシーンはなく過去形として語られている。そしてその役目を担っていたのは、誰あろう十郎なのだ。
 善児は十郎と同じようなルートを辿るのだろうか?子供を川に沈めたと思われるシーンが本作の限界なのかもしれないが出来れば同じルートを辿ってほしい。

 最後にネタバレを一つ。
 『鎌倉殿の13人』のヒロイン八重姫には『草燃える』へのオマージュが色濃く出ているので、先に記しておきたい。

 『草燃える』で松平健が演じた小四郎の最初の妻(北条泰時の母)茜(創作名)を演じていたのは松坂慶子だ。ところが泰時の父は当然のことながら形式的には小四郎(義時)ではあるものの、本当の父は頼朝かもしれないという出生の秘密を複雑な設定として採用されていたのだ。『草燃える』の視聴者の多くは、新垣結衣演じる八重姫は、この茜ポジションだと思うだろう。

 歴史上不明な女性で、あまりにも神秘的な泰時の母に作家として食指が湧き想像が膨らむのは当然だ。中島も三谷も、この泰時の母に並々ならぬ思いがあるのだろう。

 中島が創作した茜は大庭景親の娘で平家に仕える女、曽我物語に登場する八重姫は伊東祐親の娘ということで茜も八重姫も反源氏の女というドラマ性に共通点がある。中島は泰時に出生の秘密という十字架すら与えるが、今のところ、仮に八重姫が泰時の母になれば初恋と言えど叔母甥の関係で小四郎と結ばれることになるがそこは気にしなくていいことなのか?それとも八重姫に瓜二つの架空の女性が登場し、泰時を産むのか、または後妻になる姫の前が八重姫に瓜二つなのかは分からないが、そのくらいのことは誰もが考えるので、もう少しマシなレベルで視聴者を裏切ってくれるだろう。曽我物語では八重姫の再婚相手に「江馬」という名がある以上、小四郎と全く関わりがないというのも嘘になるし。ただ気になるのは入婿として北条館に住む頼朝の目と鼻の先に江馬次郎に嫁がされた八重姫が住んでいることだ。あるいは八重姫が授かるだろう泰時は、旧作に乗っ取って泰時の父は頼朝かもしれないとも言えるのだ(と思っていたら既に5話「兄との約束」で頼朝は八重姫に接触していた)。

 露払いはここまでにしてこれでやっと本題になるが、本稿はここから『草燃える』との相違点を中心に記したい。

追記:ぐずぐずと下書きを続けていたら投稿する前に姫の前役が決まってしまった。ということで姫の前が八重姫に瓜二つということにはならない。


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