どうせなら最後まで理想論とやらを貫いてほしい
『明日、ぼくは店の棚からヘイト本を外せるだろうか』(福嶋聡)を上記と同じタイトルでAmazonにレビューを書きました。以下が本文になります。加筆修正はありません。
「明日、ぼくは店の棚からヘイト本を外せるだろうか」、このタイトルを見てしまった時点で、武田砂鉄あたりが何か言ってくるだろうなとは思ったが、その予感は当たってしまった。その内容は『AERA』’24.4.1号の「今週のわだかまり」という武田の連載コラムに載っている。珍しく持って回ったような言い方で肯定とも否定とも取れるような論評だった。
武田は「『多数派、少数派のどちらにも必要なのは、対立する”敵”の軽視、無視ではなく、”敵”の主張を知り、吟味した上での議論、対話なのである』との考え方は理解できる」と本書の第7章を引用しながら一定の理解を示す。そして福嶋聡が例に出した『WiLL』や『月刊Hanada』の販売部数の多さに対しても、「自分はよく、いわゆる右派系の『月刊Hanada』を購入する。(中略)中身を読む。『敵』の主張を知る。」と自分は福嶋に思われているような「読まずに敵を罵る人間」ではないと弁明する。
だがヘイト本を取り除きたい気持ちは変わらないと、そこは断固として譲らない。
武田に逡巡があるのは分からなくもない。何故なら武田自身も福嶋が書店内で主催する『ヘイト本』を批判するフェアに賛同し、福島の前著『書店と民主主義:言論のアリーナのために』を評価していたからだ。しかし本書だって前著に引き続いて「言論のアリーナ(言論の闘技場)」が一丁目一番地になっているし、実際ヘイト本を置かないと「言論のアリーナ」は実施出来ないと思うが、その点はどうなのだろう?
さらに武田は、原稿に書く機会を持っている自分とヘイト本が目に入って苦しむ友人とは違うというようなことを吐かしてくる。はっきり言えばそれもかなりの上から目線というか選民意識そのものではないか。
それに「書店は送られてくる本の全てを選べるわけではない。客層に合わせて置く本を選ばなければいけない事情もある」と書店員を庇いながらヘイト本を出す著者や出版社を矛先にすることでホッとする感が見て取れる。武田が(著者や出版社が)ヘイト本を出さなければ、書店は置かなくてもよくなるという論調は、「書店の人間は蚊帳の外か、議論の相手にはならないと思われているのか」という福嶋が持つ疑念にも繋がる。
「言論のアリーナ」を肯定しながら後生だからヘイト本そのものは置いてくれるなと聞こえるのは、やはり「明日、ぼくは店の棚からヘイト本を外せるだろうか」というインパクトの強いタイトルが原因なのだろうか?筆者も最初は前著のことは知らずに本書のタイトルに心が突き刺さって手に取ったクチなので、そこに躊躇してしまうのは分かる気がする。「アリーナ論」はいいけど、第1章で「しかし、それでも、書店の人間として『ヘイト本』を書棚から外すという選択はしません」と福嶋に宣言されるのは困るということなのだろう。
ちなみに、第28章で、福嶋が自分への批判として一例を紹介していた。「『ヘイト本』を批判するフェアには賛同するが、そこに『ヘイト本』そのものを置くことは反対だ。」という一例は武田と全く同じである。武田の本書への論評については、答えになっていないとも思えるし、弁解とも取れるので、武田が『AERA』の連載コラムに書くに当たって、自分と同じような意見が紹介されていた箇所は読んだのか、または見落としていたのか、または見なかったことにしたのか、その点は不明である。
そして本書を手に取った多くの読者のように、筆者も『ヘイト本』を批判するフェアには賛同するし、そこに『ヘイト本』そのものを置くことも武田と違い賛同する。それに「書店は公平中立であるべきだ」とは全く思わないし、書店がどのような本を並べるかも書店の自由だと思っている。
なので本書の主題については概ね賛同するが、そのことで判定が甘くなりがちになることは気をつけたい。
特に第5章の「行動する保守」における男女差、第7章の「選民意識を持つ人たちはたいてい自らが少数派と思っている(が、『正義』は自らにあるとも思っている)」、第9章の『イスラム・ヘイトか風刺か』をめぐってのシャルリー・エブド襲撃事件についての見解、第10章の『絶歌』への集中砲火、休刊に至った『新潮45』、第13章の米国と「本土」資本からの掠奪・蹂躙、第19章の安倍晋三銃撃事件についての見解においては同意見で全く異論はない。
ただ後半になると福嶋の熱意が高まる一方で読む側の方が次第にトーンダウンしていくことに関して否定は出来ない。
ヘイトスピーチの法規制に賛同する福嶋が何の迷いもなく突き進んで行くようにしか見えないからである。
確かに第27章で「ヘイト本」を店の書棚から外さない理由と、「『証拠隠滅』してどうする!?むしろ晒すべきではないか?(中略)敵の存在を明らかにし、批判して戦うべきではないか。」と宣言していることは矛盾していないとは思うが、晒したあとは法で処罰してもらおうというのは、福嶋らしくないというか本来の福嶋の理念とは違うのではないか?
現に同章で「真摯な批判が『ヘイト本』の著書に届く可能性がゼロではない。『頭がお花畑』と言われるかもしれないが、ぼくは、そのような揶揄こそ、変えるべき現実を放置すると思っている」と語っている。ヘイト本を置かざるを得ない自分を肯定するための詭弁とは決して思わないが…
それに第31章では、福嶋が、映画『福田村事件』のメッセージと自分自身を重ねてもいるし、森達也の座右の銘とも言える「自分自身を加害者側に置く作業」も支持している。
また第5章で、「慰安婦」問題と「男女共同参画社会」を批判のターゲットにする「行動する保守」の女性たちは、正面から批判しにくい男性活動家の弾除けになっていることを指摘しているし、第18章で「白状すれば、ぼくも同じような感情を抱く」と車内で人身事故のアナウンスを聞くたびに苛立つという罪の意識も告白している。
だが加害者への分析がやや単純な部分も見受けられる。
第24章での鶴橋駅前で、女子中学生が「ここにいるチョンコが、憎くて憎くてたまらないんです!」というヘイトスピーチの連呼についても「自分たちが被害者だと思っている加害者」についての心理ももう少し掘り下げてもらいたかった。
女子中学生が「殺してあげたい」と曰うくらいだから立派に悪意はある。同時に「助けてくれ」とも叫んでいる。
無論擁護するわけではないし被害を受けている在日コリアンに全く落ち度はない。
多分無意識に在日コリアンが自分の競争相手だと認識していてしかも自分に余裕がないのであのような暴挙に至るのだろう。
ヘイト本が跋扈する要因の一つとして、左派より右派の方が、在野からの書き手に間口を広げて営業右翼を増やしているようにも感じる。左派がもう少し在野の書き手に間口を広げてくれればヘイト本があそこまで跋扈することはなかったとも思う。ヘイトに陥る前に営業右翼になる前に闇落ちする前に、(発言の場がある者が)間接的にでも搾取してはいないか?芽を摘んでたりはしていないか?筆者のような発言の機会がほとんどない者でもそれに胸を張る自信はない。
繰り返すが「真摯な批判が『ヘイト本』の著書に届く可能性がゼロではない。」という宣言が、福嶋の本来の理想論なのだろう。
どうせなら福嶋らしく最後までその理想論とやらを貫いてもらいたいものだ。