SHOGUN 将軍の原作本、トンデモ本としては面白い
『将軍 SHOGUN 』(扶桑社)を上記とほとんど同じタイトルでAmazonにレビューを書きました。以下が本文になります。太字にしたのはnoteで加筆した部分です。
最初に言っておくと、ディズニープラスには加入していないため、第76回エミー賞史上最多18部門を制した大人気ドラマ『shogun 将軍』を鑑賞はしていない。なので同名小説である本作とドラマの比較としては参考にはならないと思う。
厳密に言うと、本書はかつての絶版本が再版された復刻版である。その絶版本を手放してしまった読者(筆者)が本書を買い直せたのも、ドラマのリメイクのオマケのように復刊し、電子書籍化もされたからである。
本書を一言で言えば、ツッコミどころ満載のトンデモ本の類であるが、だからこそトンデモ本としては面白い。歴史小説といえど実在の人物を仮名にしたことが勝因の一つだと思う。登場人物が誰に該当するか想像するのも楽しいし、実名では実現出来なかったことを軽々と飛び越えてしまうことも痛快ですらある。
一番楽しかったことは、読者同士の想像の食い違いだ。
吉井虎長(家康・ドラマでは虎永)の次男、長門は、モデルは家康の四男松平忠吉と言われているが、原作の記述を見ると忠吉ではなく六男の松平忠輝ではないかと思われるのだ。「御子息の長門殿と政宗公の御息女を縁組みさせ」(将軍1第12章)の政宗公というのは文字通り伊達政宗のことであり、その御息女(五郎八姫)と結婚したのは忠輝のこととしか思えない。長門の結末は、原作とドラマでは違うようだが、ドラマでの直情的なところも忠輝と似通っているようにも思える。
また、木山右近定長のモデルは不明であり、東西のキリシタン大名である小西行長や高山右近の要素もあると言われているようだが、一番割合が多いのは、やはりキリシタン大名である黒田如水ではないかと思われる。同様の記述で「孫娘は木山公の御子息に嫁がせておられる」(同第12章)の”木山公の御子息”は黒田長政と思われるし、実際に家康は、姪でもある養女を長政に嫁がせている。上記の2つの記述は、家康が関ヶ原前に秀吉の遺言で禁じられていた大名同士の政略結婚をぬけぬけと進めていたことについての説明であろう。
また作中での虎長のルーツに関しては、名門で簑原一門と呼ばれているが、おそらく”源氏”のことなのだろう。確かに徳川(松平)は源氏の末裔ということになっている。まあそれはあくまで自称だが。
作中で虎長のゆかりの地は鎌倉だとはっきり示しているし、「簑原家の最初の将軍義朝が持っていたもの」(将軍2 第30章)という記述も「鎌倉幕府初代征夷大将軍源頼朝」からだろう。しかも「義朝」は将軍ではないが、頼朝の父の名前だ。”将軍”というタイトルからしてもいかに本書の作者、故ジェームズ・クラベルが征夷大将軍というステータスに拘っていたことが見て取れる。
明智仁斎(光秀)の妻が髪を売ってまで金を工面し夫を支えたことや、虎長と中村秀俊(秀吉)が連れションしていたということなど事実かどうかは置いといてそういった逸話まで取り上げたということは、クラベルも仮名だからこそそれなりの下調べはしたのだなとその点は素直に感心した。ちなみに虎長の虎は家康が(和暦なら)寅年生まれなのでそれにちなんでということなのだろう。
トンデモその1は、主人公英国人航海士ジョン・ブラックソーン(ウィリアム・アダムズ/三浦按針:本書では安針)と通訳者戸田まり子(細川ガラシャ・リメイク版のドラマでは鞠子)のロマンスだが、クラベルの着想は、ただ単にアダムズとガラシャの生年が近いから思いついただけなのかもしれない。だとすると安易といえば安易だ。
トンデモその2は、落葉の方(淀殿)が設けた子(秀頼)の出生の秘密だが、内容については、真新しいものではない。秀頼の出生の秘密なんて、事実かどうかは置いといて、誰だって思っていたことには違いないが、それについての赤裸々な暴露は、本書以外にはあまり見かけない。トンデモその1といい、その2といい、実名では決して実現できなかっただろう表現ではある。
近年、朝ドラでは実在の人物によくこの手法を用いるが、大河ドラマはプライドがあるのか頑なに同じ手法を用いることはない。
本作がトンデモ本といわれる要因は、荒唐無稽だということだけではない。最初の原作本が刊行されたのが昭和のど真ん中に近いくらいの昔であったとしても、見過ごせない差別発言や女性蔑視が多々ある。
例えば「はるか北のほうにもうひとつ島がある(中略)毛深い原住民が住んでいるという話だ」(将軍1 第10章)これはブラックソーンの好敵手でありポルトガル船のスペイン航海士ロドリゲスの発言だが、目に付くどころではないというより笑ってしまう。というより「オマエが言うな」とツッコむところである。
また戸田広松(細川幽斎)の敵将たちへの否定とはいえ、
はないだろう。モデルが幽斎である以上、一応は教養人である人間が言うことなのだろうか?もっとも実際の幽斎は、教養人ではあるが、この広松よりずっとしたたかではあるが。
しかも一番封建制度を肯定しているのはまり子であり、生徒であるブラックソーンにその素晴らしさを力説すらするのである。ただまり子は封建制度を本心でも肯定はするもののどこかでは否定する向きもあるのだ。
は明らかにそうは思っていないだろう。ブラックソーンにはそう装うが、主君の吉井虎長には
「殿も、異人たちと同じ海軍をお持ちになるべきです」(将軍3 第1章)と進言するのである
「女は政治のことなんて」はブラックソーンへのリップサービスとも思われるし、”自分のような優秀な女性以外は”と思っているかもしれない。
「男も女も同じように侍になれ主君のために戦います」(将軍2 第23章)と言いながら形式的には男性に3歩下がるのだから、現在の一部の男性に都合のいい、悪く言えば”名誉男性”と言ったところか?
現にブラックソーンは日本の封建制度を批判しながらまり子のリップサービスには機嫌を良くして
「おれたちの国の女も、そういうふうにわかっているといいんだがな」(将軍2 第20章)と本心を口にする。
この台詞はクラベル自身の本音とも言え、わかっちゃいるけど日本の封建制度にいいところもあるとちょっと思っているがそれはナイショだとでも言いたいのだろう。クラベルの描き方に不満はあるが、日本の歴史小説だってちょっと前までは男性中心が当たり前だったし、仮名とはいえガラシャが表舞台で活躍するだけでも進歩なのだ。誰よりも生き急いでいた女性を真正面に描いたことも一応は評価に値する。
第76回エミー賞で歴史的快挙を成し遂げた『shogun 将軍』は、原作と最初の映像化をかなりアップデートされていることは見聞きしているが、いつか鑑賞するときの楽しみでもある。
原作では舞台は日本であっても時代は1600年と西暦しか示さない。漂着した英国人航海士ブラックソーンの視点でしか進行しないので、慶長5年という和暦は一切記述しない。しかしドラマではどうだろう。言われているように虎永の目線で進められているようだし、予告編では1600年(慶長5年)と示されているように、多分本編でも和暦の表示はあるのだろう。ただ英国人でプロテスタントであるクラベルの個人的見解までは変えられないのではないか?
漂流したアダムズも、プロテスタントで、家康も重宝し家臣に取り立てたわけだから、当然本作も関ヶ原では東軍寄りだったり、キリスト宗派でもプロテスタント寄りだったりするのは仕方ないとは思うが、それでもどうしたって鼻に付く。
原作では東軍と西軍の扱いの差は大きく、特に石堂和成の扱いは酷すぎる。いいところは一つもないだけでなくまるで勧善懲悪ものの悪人に等しく権謀術数すら雑になっている。ただ諸大名の妻子を人質に取る作戦の責任者が三成であることは事実なので、ガラシャ視点の割合が大きい作品である以上割りを食うのも当然かもしれないがそれでも徳川びいきが過ぎるのではないか?権謀術数に溢れた野心家としても描かれてはいるが、クラベル自身、序文で虎長を稀にみる賢明な大名と持て囃している。終盤では結局はいずれは大阪城を攻め滅ぼすことと鎖国への道を歩んでいくことを自ら暗示するものの年貢も下げてくれるような名君に描かれている。賢明には間違いないだろうけどやり過ぎだ。
またカトリックである西軍のキリシタン大名は悪役になりがちである一方、まり子もカトリックなので、プロテスタントvsカトリックがプロテスタント寄りであっても、東軍vs西軍よりは少しは複雑になっている。
徳川びいきだとどうしても織田には厳しくなるのである。
落葉(淀殿)と葵(江戸幕府2代将軍の正室)の「残酷さ」(将軍2 第31章)、「隠れた残忍さ」(将軍3 第49章)は黒田(織田)から受け継いだものだと何度も繰り返すのだ。その分ガラシャの父である明智は分がいいのである。
他にもモデルとの比較に不満はある。
柏木矢部(リメイク版ドラマでは薮重)のモデルは本多正信だが、やはり矢部の行動は正信の若い時の三河一向一揆に加わったことを参考にしているようだが、本能寺の変前後に帰順していたようなので、結末は真逆と言ってもいい。ドラマでもトリックスターとしての魅力を発揮しているらしいが、正信の権謀術数はもっと複雑怪奇であるし、「ひどい圧政をしいていた」という記述も一向一揆には結びつかないのだ。矢部による釜茹についても、冒頭での反響を狙って奇を衒うこと自体は悪いとは思わないが、不自然だし雑だ。
出来たら南光坊天海をモデルとする人物も出してもらいたかったこともある。
第二次世界大戦下で日本軍の戦争捕虜になった経験のあるクラベルがウィリアム・アダムズに重ねたくなるのは分かるが、フィクションとはいえ関ヶ原ものである以上、もう少し群像劇として見たかったというのが正直な気持ちだ。
ドラマのプロデューサーの1人として手掛けたクラベルの娘ミカエラも、虎永を演じ代表者も兼ねる真田広之と同様に、功罪を含めた原作のアップデートに力を尽くしたのだろうと推察する。ともあれ鑑賞する機会が待ち遠しいと思っている。