オタクは息苦しい。チー牛は生き苦しい。
ジョージアのあの美味しいペットボトルコーヒーのCMがありますわな。
これ。
妹はAGCで姉はコカ・コーラ社。広瀬姉妹もすごいですねえ。
そんなことはさておき。
ぼーっとこのCM見てたらタイトルを思い付いたので記事にしました。
ではレッツゴー
オタクは社会参加しなくちゃならないから息苦しい
まずCMの内容から。
広瀬アリス扮するキャリアウーマンのもとに、ついに待ち望んだアニメの仕事が。常日頃からアニメ好きをアピールしてたからこそ回ってきたチャンスだとアリスは内心小躍りしてますが、上司の手前平静を装う。しかし声優が梅原裕一郎だと聞くや喜びが爆発。上司がびっくりするぐらいの大量の企画書を提出した。
ナレーション(梅原裕一郎)が言うには、「仕事は楽しい方がいい」。
こんな感じ。
内容の意味を取ってみましょう。
・キャリアウーマンとアニメ好きは矛盾しないが、度を越えたアピールは憚られる。
・オタクは夢中になれるという能力を持っており、それがいい仕事に役立つ
上記2つから導き出せるのは現在のオタク像です。
つまり
オタクは社会人が持ってもいい性質であり、夢中で仕事をする人だ。
ここにおいて、広瀬アリスがキャリアウーマンであることは重要です。社会に進出する女性もオタクであり得るということは、オタクがプラスの属性だといえるでしょう。
要するに、広瀬アリスは「リア充オタク」なのであり、ここに「オタクの社会化」、「社会によるオタクの馴致」が見出されます。
要するにを言い換えると、オタクは社会における未発見の価値を探し当てマジョリティの皆様に還元するという役割を与えられている、ってこと。
それ証明するかのようにこの動画のコメント欄には「お茶の間に梅原裕一郎が流れるなんてすごい!」、「アリスちゃんが我々すぎてしんどい」といったコメントが多数。
マジョリティの皆様に梅原裕一郎を知っていただいたこと、そして広瀬アリスという人気と美を兼ね備えた存在と自分とを同一視できたことにオタクの皆さんもご満悦のようです。
さて。
ここまでの議論がいささか男性優位的でイチャモンめいているのは、私が脳裏に宮崎勉を思い浮かべているからです。
オタクというカテゴリーが日本に浸透したきっかけは、宮崎の起こした幼女連続殺人事件です。1970年代にじわじわ誕生してSF・アニメファンの自嘲を込めた自称だったオタクですが、これ以降、「犯罪者予備軍の男」という強力なスティグマとなりました。
名作マンガ『キャノン先生トばしすぎ』より
ただし、1975年の第一回コミックマーケットの参加者の大半が女性であり、しかもその活動内容が「人様のキャラを無断で借用しホモセックスマンガを描いたあげく公共施設内に陳列する」というバンクシーもびっくりの反逆っぷりだったことをふまえると、このスティグマの根拠のなさがわかるでしょう。
押し出されたチー牛
90年代にはまるで反社会勢力みたいな扱いを受けていたオタクですが、現在では広く受け入れられている性格です。
広瀬アリスがアニメ好きなのはそれが「最も新しく市民権を得たジャンル」だからです。
アニメ以前にはマンガ、マンガ以前には小説。明治大正くらいの頃は小説なんてバカが読むものだとされていた。それが老害が死ぬとか若い人口のが多いとかの要因で徐々に公の場で言えるようになって、言ってたやつが今度は老害になって権力の側になったので現在「高尚な文化」なっているわけであります、多分。
マンガもアニメのその市場規模はすさまじい。市民権を得たから市場規模が大きくなったのか、市場規模が大きくなったから市民権を得たのか。人間なんて昔も今もバカしかいないんだから後者だろうと私は思います。
別に日本人が1つ賢くなったわけではなく、単に「これで商売したら儲かるわ」って認識が広がったから人権を認められた。
話を戻します。
定義が変われば、新たに排除されるやつが出て来る。
オタクが市民権を得て排除されたのは、「金にならないオタク趣味を持つやつら」です。「金にならない」の部分を「社会参加を望まない」と言い換えたっていい。
アニメオタクになったが最後、グッズへの課金でマウントを取り合い、聖地巡礼をし、イベントに出かけ、否定的な目を向ける人とジハードをし、同人やSNSで好きを表明することを強いられる。
アニメオタクの部分を例えば映画に置き換えるとパターンも変わります。映画オタクになったが最後、どれだけ深い分析ができたかでマウントを取り合うことを強いられ、名作の鑑賞を試練のごとく与えられる。
この種のバトル自体は昔の方が強かった気もするけど、とはいえ今やオタクと社会参加(生産流通消費のシステムに参加すること)は不可分です。これによって「ただ家に独りでいるのが好きで内向的な趣味が好きなやつ」はオタクというカテゴリーから追い出されてしまった。
彼らを受け入れるために誕生したのが「陰キャ」「チー牛」。
これらの新語には、オタクが従来カバーしていた「ダサいやつら」、「根暗」、「ブサイク」をカバーする機能がある。
アイドルや女優がオタクを公言する現在、オタクだからといって必ずしも「ダサい」「根暗」だとはいえなくなったのです。
「まあでも、オタクになってマウンティング課金バトルするよりかはチー牛でいた方が楽なのかな……」と思ったそこのあなた。チー牛には強烈なデメリットがあります。
それは「自分の活動に価値を認めてもらえないということ」。
人間の実存は本質に先立つので、どんな自分になるかを選択しそれを社会参加によって示さなければならない。
サルトルがこの本でそんな感じのことを言ってました。
チー牛とは「社会参加しないオタク」なのでその自己は葛藤の嵐です。社会参加をしなければ自分が何者なのか一生わからないが、かといって社会参加すればマウンティング課金バトル。
自己を拘束され、「マンガは好きだが呪術廻戦は読みたくない」などという気持ちを持つことは許されない。逆に「鬼滅の刃にハマってます!」とも言えず、なんか『怪獣8号』とかを早口で語らなくてはいけない。
オタクになると息苦しいが、チー牛になると生き苦しい。
解決策、俺に聞くな。
ガンダーラにでも行け。
じゃあな。