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中国の怪談ー『聊斎志異』『唐宋伝奇集』など
日本では少し前に実話怪談がずいぶん人気を呼んだ。いまもその人気が続いているかどうかは知らない。
中国は、今は唯物主義を是とする国になっているので、実話怪談集の類はほぼ存在しない。もっとも、古い時代にはたくさんあって、ありすぎて困るくらいあった。
その上、中国の古い怪談は基本的にすべて「実話怪談」である。『唐宋傳奇集』『剪燈新話』などは、実話と言いながら、脚色たっぷりな話ばかりであるが、それは中国の怪談では少数派なのであった。
中国の怪談集で一番有名なのは、清代の『聊齋志異』である。その次に有名なのは、同じ清代の『子不語』『閲微草堂筆記』であろう。それより古いものだと『捜神記』『唐宋傳奇集』『剪燈新話』が挙げられる。
『聊斎志異』は平凡社などから全訳が出ているが、いまや古本でしか入手できない。新刊で入手できる岩波文庫の『聊斎志異』は、ごく一部の抜粋集である。
『閲微草堂筆記』は平凡社ライブラリー、『子不語』『捜神記』は平凡社東洋文庫で入手できるが、目の玉が飛び出るくらい高い本なので、わざわざ買う人はすくないだろう(しかも、新刊で買えるのは『子不語』のみ)。
岩波文庫の『唐宋伝奇集』なら簡単に買えるかと思ったら、こちらも絶版で、こうした状況からみると、中国の怪談は日本ではあまり人気がないようだ。
先にも述べたが、中国の怪談はうんざりするほどたくさんあって、日本の怪談の量を軽く凌駕する。そもそも、日本の怪談は中国の影響から生まれたものだ。いまでこそ日本のほうが怪談の本家のような顔をしているが、もし共産主義国にならなければ、いまも中国は怪談の王者であったろう。王者になどなりたくもないとは思うが。
岡本綺堂『中国怪奇小説集』は、文庫版でいまでも気軽に入手できる中国怪談のアンソロジーである。もともと『支那怪奇小説集』として1935年に出た本で、著作権が切れているので青空文庫で無料で読むこともできる。
そこに収められた話は、中国の多くの怪談集から採取されたものだ。怪談集の名を挙げると『搜神記』『搜神後記』(六朝)『酉陽雜俎』『宣室志』(唐)『録異記』(五代)『稽神録』『夷堅志』『異聞總録』(宋)『續夷堅志』『南村輟耕録』(元)『剪燈新話』(明)『池北寓談』『子不語』『閲微草堂筆記』(清)であるが、このうち全訳されている怪談集は『搜神記』『搜神後記』『酉陽雜俎』『剪燈新話』『子不語』だけである。中国の怪談集全体から見ると、ごくごくわずかで、砂漠の砂ひとつかみ分といったら大袈裟ではあるが、それに近いくらい少ないのだ。
嘘だと思う人は怪談がたくさん載っている『太平廣記』『夷堅志』(宋)を見るとよい。あまりの分厚さに足がすくむと思う。これらの日本語全訳が発刊されることは永遠にないと思う(『夷堅志』の翻訳が進んでいるが、全訳はしないだろう)。
日本で中国の怪談が人気のない理由ははっきりしていて、それは、怖くないからである。芥川龍之介は次のように述べている。
日本と支那の幽靈の間にも大分懸隔がある。第一日本の幽靈は非社交
的で、あんまり近づきになつても愉快でない。精々凄い所が身上だか
ら、御岩稻荷にしも、敬遠されるのが關の山である。所が支那の幽靈に
なると、敎育があつて、義理人情が厚くつて、生人よりは餘程始末が好
い。噓だと思つたら、一部の聊齋誌略を讀んで見るがいゝ
中国の実話怪談のほうが、日本の創作怪談より怖くないのは不思議だが、日本人と中国人の世界観が違うからそういうことになるのであろう。