
中村天風と神仏
私は、神仏というものの存在を、第二義的に人生を考える者には必要かもしれないが、自分自身を真理に沿って正しく生かす者に対しては、何ら顧みる必要のない存在だという大きな確信のもとに生きております。
私も先祖は敬いますよ。けれど、私は科学文化の先端に常に自分の人生に対する理解を求めている者です。したがって、私の目には見えもしない抽象的な、何だかわけのわからない神なんてものや仏というものをあてに生きておりません。
(『心に成功の炎を』)
中村天風は、神仏にすがるのは意味がないと述べています。
困ったときに神仏にすがる必要はありません。そもそも、人は宇宙霊から大きな力を与えられています。
その力を活かせば、本来、困った事態などいかようにも打開できるわけなのです。それができないのは、人の側が宇宙霊の力をちゃんと受け取っていないからです。
要は、自分のなかで宇宙霊の力を阻んでいるものを追い出せばよいわけです。
心に巣食っている消極的なものをどんどん排し、身体に悪い影響を及ぼす神経作用を整えていけば、自然と大きな力が湧いてくるのです。
神仏が力を与えてくれるのは、それがうまくいった時です。
己を変える努力をしなければ、神仏だって救いようがないわけです。救ってやろうにも、人自らがその力をはねつけてしまっているのでは、どうしようもないではありませんか。
結局、自助が肝要ということです。たしかに、困った時にだけ神社や寺に来てお願いされても、神仏は困るに違いありません。
常日頃から信仰深い人であろうと、その人自身に原因があってうまくゆかないことなら、神仏は助けようもありません。そもそもが自分の力でどうにかできるように作られているのが人間なのです。
もちろん、神仏のような人知を超えた存在について、人間が知ることは多くありません。謎の魔法を使えば、言うことを聞いてくれるとか、百万円以上寄付して祈れば願いがかなえられるとか、自分の身を痛めつけて祈れば無理を聞いてもらえるとか、怪しい宗教団体に入会すれば神と直接対話できるとか、そういった裏の方法はあるのかもしれません。
しかし、その方法が確実かどうかは、まったく保証がないわけです。百万円寄付したあとに願いがかなったとしても、それは寄付とは関係なく、たまたまだったのかもしれません。
ふだんは忘れているくせに、困った時だけ神仏に頼るのは失礼なことでしょう(そうかといって、一日中、神仏のことばかり考えているのも問題ですが)。人は自力でかなりのことができるように作られているのですから。
天風は、神仏は敬う対象であり、お願いする対象ではないと言います。敬して遠ざける。神仏に対しては、そういう姿勢のほうがいいのではないでしょうか。まずは自分でできることをしなくてはいけません。
もちろん、神仏のタタリを恐れる必要もありません。
よくないことが続くと、なにかのタタリかも、などと思ったりしがちですが、神仏に原因を求めるより、自分に求めたほうが早いのです。
ただ、自分で自分を直していくというのは苦しいことです。だからこそ、困った時に急いで始めるより、前もってやっておいたほうがいいのでしょう。