連載【新コロ恐怖症という病】30.断言します。他人を自己責任という言葉で叩く奴に自己責任を持って生きている奴はいない。
2021年08月18日
いや~夏休み。
遊びまくっていました。よってデジタルデドックスです。すっきりです。
その間に、感染者数が膨大しているようですね。
相変わらずに
「(YASUのように)新コロなんて大したことないと安心感を煽った連中は無責任だ!」 とか。
「(YASUのような)遊んでいる奴が新コロに罹っても自己責任だ!医療逼迫しているんだから病院に行くな!」とか。
なんだか感染者数が膨大して「ほら、みたことか!」と喜んでいる人もいるようですね。
今日は、「自己責任」について考えてみましょう。
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①自己責任とは何でしょう?
いつからでしょうか。「自己責任」とはリスクを承知でチャレンジし、それでも失敗してしまった人を叩く言葉に成り下がったのは。
いつからでしょうか。「自己責任」という言葉を免罪符に「助けてやらなくてもいい」という風潮になったのは。
僕は、山屋ですから。もうずっと前から、山岳遭難の記事が載る度に。その自己責任論者と闘ってきました。
「遭難者は自己責任だから助ける必要がない。」
「遭難するような奴を危険を侵して救助する必要ない。迷惑だ。」
そんな言葉と闘ってきました。
僕は山屋です。遭難する可能性もあるし、救助要請があれば救助することもあります。
救助要請があれば喜んで行きます。
山を愛する人を助ける力になれるなら、それは本望です。危険を承知で助けにも行くでしょう。
勘違いしてはいけません。
救助する人も「自己責任」をザックに詰めて救助に行くのです。
「自己責任」とは失敗したチャレンジャーを叩く言葉ではありません。
「自己責任」とはリスクを承知でチャレンジしようとする自分を奮い立たせる言葉なんです。
当然、これは登山に限った事ではありません。
あなたの仕事も、趣味も、恋愛も、生きることすべてが、リスクとチャレンジの繰り返しです。
リスクとチャレンジの繰り返しでしか人は成長しません。
しかし時に人は失敗するでしょう。
それでも、またチャレンジする。それが自己責任です。
そして、その失敗した人を助ける。それも自己責任なんです。
つまり、失敗したチャレンジャーを「自己責任」という言葉で叩く人に、「自己責任」を理解している人はいません。
つまり、失敗したチャレンジャーを「自己責任」という言葉で叩く奴に、「自己責任」を持って生きている奴はいないのです。
「自己責任」を投げ出して安全圏から他人を叩く事にしか喜びを見いだせないような奴に、
「自己責任」という言葉で他人を叩く資格はありません。
そんな生き方しかできない奴に「自己責任」を語る資格すらないのです。
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②自己責任論議と新コロ論議
①のようにmixiに山岳遭難の記事が起こるたびに自己責任論者と僕は闘っていました。
最初は、大袈裟ではなく「1vs99」くらいの戦いでした。
数年前までは僕以外の全員が「自己責任」という言葉で失敗したチャレンジャーを叩く風潮でした。
しかし、今、それも徐々に変わってきたようです。
当然、これは僕が一人で戦った成果ではありません。
元々「自己責任とは失敗したチャレンジャーを叩く言葉ではない。」と理解していた人は多くいたはずです。
でも、一方的な世論の勢いに言葉を発せられなかった。
「何か違う」と感じながらもその一言が発せられなかった。
そういう多くの人が、僕の言葉に触れることで、少しはご自分の言葉を発する一助になったかもしれません。
また、その「何かが違う」という違和感を自分の頭で考える一助になったかもしれません。
そして、そんな小さなクエスチョンマークの積み重ねが、世論を変えていくのです。
これは。新コロも同じです。
みんな「何かが違う」の違和感を持っていると思います。
持っていないのなら、あなたは「無自覚な奴隷」です。救えません。
「何かが違う」でも、一方的な世論の勢いに言葉を発せられない。そんな方は多い事でしょう。
しかし、昨年より今年の冬、春、そして夏の今。多種多様な意見が出ています。
「何かが違う」が一人一人の声になってきているのです。
こんなにも簡単に社会が新コロ恐怖症という病に洗脳されたように。
もう少し一人一人の声が大きくなれば、意外と簡単に社会は回復するような気もしています。
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③連載【新コロ恐怖症という病】と自己責任論。
さて、話を根本に戻します。
「(YASUのように)新コロなんて大したことないと安心感を煽った連中は無責任だ!」 とか。
「(YASUのような)遊んでいる奴が新コロに罹っても自己責任だ!医療逼迫しているんだから病院に行くな!」とか。
というつぶやきに対してお答えします。
この連載【新コロ恐怖症という病】は、僕の学習の記録と僕の思考の記録です。
一つ一つ丁寧に数値を基に書いています。
客観的事実を事実として認め。
主観的思いを主観的思いとしてまとめています。
だから常に。
「僕がいいたのはバランスの話です」と書き続けてきました。
「二元論の議論は意味がない」と言い続けてきました。
2019年までの死因とその数。
PCR検査とはなにか
医師会とはなにか
ロックダウンは意味があるのか
GOTOは
いかに収束するべきか
感染症指定とは
日本人気質とは
縦割り組織の弊害とは
マスクとは
リーダーとは
。。。
さまざまな角度でそのバランスを書いてきました。
素人ですから間違えもあるでしょう。
未知のウイルスですから変化することもあるでしょう。
占い師ではないので未来の事は分かりません。
しかし、今のところ、ここまでの記事に訂正する箇所はありません。
今のところ、僕は僕の認識を間違えていたとは思えません。
そして、この連載【新コロ恐怖症という病】で言い続けてきました。
「自分で調べ、自分で考え、自分で判断し、自分で行動しろ」と。
つまり、「自己責任を持って生きろ!」と。
それでも「やっぱり、新コロは怖い。」という人の自由を、僕は束縛なんてしませんよ。
どうぞ、自由に引きこもってくれたらいい。
でも、僕の自由を束縛するなら、絶対に許さない。
つまりは自己責任とバランスなんです。
「(YASUのように)新コロなんて大したことないと安心感を煽った連中は無責任だ!」 とか。
「(YASUのような)遊んでいる奴が新コロに罹っても自己責任だ!医療逼迫しているんだから病院に行くな!」とか。
それらのコメントはあまりに陳腐です。
まさしく
他人を自己責任という言葉で叩く奴に自己責任を持って生きている奴はいない。
という言葉そのものです。
それらのコメントは二元論で単純に一方を批判しているだけで、そこに自分の自己責任を持っていません。
もう一度言います。
「自分で調べ、自分で考え、自分で判断し、自分で行動しろ」と。
つまり、「自己責任を持って生きろ!」と。
あなたの人生を誰かのせいにしている限りは。永遠にあなたの人生はあなたのものではありません。
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④さあ、あなたはどう生きますか?
僕が夏休みで遊びまくっている間に、
確かに感染者数(陽性者)は増えています。
でも、PCR検査が増えているんだから当たり前です。
もっというなら、陽性者なんて膨大に隠れています。
新コロ恐怖症の人も、僕のような遊び人を叩くあなたも、その喉にウイルスが付いている可能性はおおいにあります。
そして、それでいいんです。
無自覚な陽性者がいっぱいいる。これ現実です。
そして、それこそが、正常で当たり前のウイルスの収束への道なんです。
現に死者は着実に減っています。
それとは別問題で、
日本は完全に医療崩壊しています。
完全な人災です。
国も医師会も国民の命を見放しました。
残念ながら最低最悪の国です。
これが日本の実態です。
ここでのポイントは「それとは別問題で」の一文です。
さまざまな事実をごちゃまぜにして二元論でものを語る人は愚かです。
課題は分離しなくてはなりません。
それができないから、不安や怒りの矛先が的外れで、おかしな世論を作り、ますます解決が遅れるのです。
それでは日本はどうすればいいか。
そんな話はもう、ここではしません。
あなたはどう生きますか?という話をします。
もう、国も行政も医師会もマスコミも専門家も、信じられないということは、誰しも感じていると思います。
それならあなたはどう生きますか?
人生はリスクとチャレンジの繰り返しです。
そしてそのバランスです。
僕は、たとえ新コロに罹って死んでも、笑って死ねるように生きます。
死んでいないだけで生きていないような人生は御免です。
そしてそんな連中と、無理心中なんてまっぴらごめんなんです。
人生には自己満足を追求する自己責任があるのです。
それが、「生きる」ってことです。
断言します。
他人を自己責任という言葉で叩く奴に自己責任を持って生きている奴はいません。
自己責任という言葉を勘違いすると、もの凄くダサい人生になります。
さあ、あなたはどう生きますか?
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