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文字で完成させた短歌を、声で伝える装置でありたい。 <PSJ2018ファイナリスト・本山まりの>

ポエトリースラムジャパン(PSJ)2018年名古屋大会で、会場賞を受賞された本山まりのさん。3度目の出場にしてはじめて、短歌の朗読でチャレンジしていただきました。

ピンと張った糸のような静けさと、ヒリヒリするような情感。けして大きな声を使わないからこそ、聴く人に耳をすまさせ、作品世界に引きこむ力を感じます。

そんな本山さんに、短歌をつくること、声にして伝えることの試行錯誤をじっくりうかがいました。聞けば聞くほど、創作やステージへの真摯さが伝わってきますよ!

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声だけで世界を作るって難しい

-詩や短歌との出会いについて教えてください

本山まりの(以下、本山):高校2年生の春に、たまたま私のクラスの国語の担当をされていた先生が、授業の合間に現代短歌の話をしてくださったことがあったんです。いくつか最近の歌人さんの作品を紹介されて、最後に「みんなも短歌を作ったら、私のところに見せに来てください」っておっしゃったんですね。その先生ご自身が短歌を作ってらっしゃる方で。そのときクラスメートと一緒に作って持って行ったら、文芸部の入部届けと、短歌甲子園のパンフレットを渡されました。

-周到な勧誘だったんですね(笑)

本山:それ以来文芸部で活動するようになりました。短歌甲子園には高二と高三で本戦に出場して、私のチームメイトが個人戦で2年目に最優秀とったりしました。私はあまり振るわずでしたが(笑)
大学は地元の山梨だったんですけど、インカレの短歌サークルを作りました。4人くらいで始めて、だんだん社会人メンバーの方が入ってくださったりとかして。あとは、短歌を最初に教えてくださった先生が入ってらっしゃる結社に参加したり。

-初めてステージで朗読したのは?

本山:4、5年前になると思うんですけど。ikomaさん(胎動LABEL主宰、PSJ2019銭湯大会、大阪大会主催)のイベント「ポエラボ」のオープニングアクトをさせてもらったのが最初だと思います。私が、もともと向坂くじらさんの朗読が好きで。何かでくじらさんの朗読をみて、声にすることで変化するもの、上乗せられるものってこんなにあるんだって、声が作る世界観にすごく惹かれて。素敵だな、もっと聞きたいなって思ったのがひとつ。声でこんなに変化するのであれば、自分もちょっとやって見たいと思ったのがひとつ。「朗読興味あるな」ってツイートしたら、くじらさんが声をかけてくださって、初めて場を与えていただいた形です。

-そうなんですね! 初ステージはいかがでした?

本山:緊張しましたね(笑)。最初の頃は短歌じゃなくて散文詩を朗読していたんですよ。どうしても短歌は声にする、音にするというイメージがわかなくて。ちょうど詩を書くことにも興味があった時期なので、読むための作品を別に作って読んだんですけど。なんでしょうね、声で演じることと、朗読することの違いが全然わからなくって。声だけで自分の世界を作るってすごく難しいな、っていうのが素直な感想でした。


ずっと大事にしてきた短歌を、私も朗読で伝えてみたい

-そのあと、2016年末にPSJ名古屋大会に出場されますよね。

本山:大学院からは、山梨から名古屋に移り住んだんです。そのとき、ちょうどPSJ名古屋大会の通知がツイッターで流れて来て。せっかくだから、もうちょっと朗読を挑戦してみたいと思って、ダメ元で申し込んだら、間に合ってしまって(笑)

-単に朗読するだけじゃなく、競い合って点がつくというのはどうでした?

本山:抵抗が全くないとは言わないですけど、歌会には、点数を入れる形式のものも結構あって。ポエトリースラムと同じで、得点をたくさんとったからよい作品とは限らない、点が入らなかった作品が悪い歌とは限らない。より強く多くの人の興味を引いた、ということが可視化されること自体は馴染みがあって。基準が曖昧なところで、どう点をつくんだろうという点はドキドキしましたけど。審査員を会場から選ぶというのは色んな側面、いろんな価値観から点をつけていただけるんだろうなって思って。私にとっても世界が広がるだろうし、ちょっと楽しみな要素のひとつではありました。

―これまで3回出場されて、最初の2回は散文詩の朗読、2018年大会ではじめて短歌を読まれましたよね。

本山:私の場合、文語よりの旧仮名遣いで短歌を作るんですけど、そうすると声ではその部分は伝わらないじゃないですか。文字で見ていただかないと、そこで出したかった雰囲気というのは伝わらないし、文字ではわかるけど耳ではパッとわからない。そういうものを使うのがまた好きだったりして、これを音声だけで伝えるのは難しいんじゃないかと思って。使う言葉の種類とかスタイルを変えて、散文詩を朗読のために作って読む、というのをしばらくやっていたんですけど。
あるとき、歌人の野口あや子さんの短歌朗読を聞いたんですね。「演じることと朗読することは違う」という言葉をくださったのが、実は野口さんなんですけど。野口さんの朗読を聞いたときに、ああ、これだって。すごく撃ち抜かれるような気持ちがして。野口さんの歌も、元の作品を知らずに耳だけで聞くと、正直、うまく言葉として頭に入りきらない部分がないわけではないんですけど。気迫と声色と読み方、テンポとかで、十分その方の持っている世界観って伝わるんだなって、私もずっと大事にしてきた短歌を朗読で伝えてみたいって思ったんです。
それで、3回目のPSJでは、文字として作った短歌をそのままぶつけてみようと思って。その日のために用意した作品が2作品くらい、それ以外は過去に作って気に入っていた連作を読んで。だから作り方は変えませんでした、あえて。

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一回成立させた短歌を、喉を通して外に出すだけ

―その短歌朗読で、読み方は変化しましたか?

本山:どれくらい伝わったかは自信ないんですけど、PSJの1回目と2回目は演じることに寄せていたなと思います。散文詩であれば、普段しゃべるようにするすると言葉を出せる。だから、違う人を演じようという気持ちで読んでいました。3回目は、うまく言えないんですけど、演じることから少し離れたつもりで。なんでしょう、スピリチュアルな感じがしますが、言葉を自分に降ろしてくるみたいな。短歌として一回成立させたものを、私の喉を通して外に出すだけ、というようなこと。
それまで私の中の朗読といえば、なんとなく演じること寄りだったんですけど。そうじゃないスタイルがあるっていうのを、野口さんの一言とか、野口さんの朗読で実感として理解して。そっちのスタイルなら、ずっと好きで書いて来た短歌を、朗読のステージで聞いてもらえるんじゃないかっていう気持ちがあって。

―その結果、名古屋大会をほかでもない野口さんと一緒に勝ち上がりましたね!

本山:嬉しかったですね。短歌って他の詩歌と違って、一首の単位で見るとすごく短いじゃないですか。そこで一旦切れてしまうので、聞き手に入り込んでいただくのがすごく難しいような気がしているんですけど。そういう短歌で、一大会で二人勝ち上がらせていただいたのがすごく嬉しくて。短歌が受け入れてもらえた、じゃないですけど。
会場賞で選んでもらったのも、個人的にはとても嬉しくて。もちろん1位、2位も達成感あると思いますけど、「残った中からひとり」に選んでくださる方がいっぱいいたんだなと思って。会場賞の投票用紙まだ持ってます(笑)

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パフォーマンスの工夫で、どれだけ生身の自分から離れられるか

―朗読するときに意識していることを、さらに聞きたいんですが…。まず文字として作品を作り、それを伝えるために声を使うわけですよね。

本山:はい。意識しているのは、本当にそこかもしれないです。これはまだ私の弱みでもありますけど、声色を使い分けたり、声量をあげたり、声で変化をつけたりがまだあまり上手にできないし。声とは別のところで完成させた作品を、いま持っている私の声で、降ろして伝える装置であろうと、最近は意識してやっています。
短歌に関しては、多分長年やって来たこともあって、思い入れが強すぎて。紙の上で一度完成させてしまうともうそれ以上さわれない…。一回作ってしまった連作とは、距離を一歩置いてしまっていて。だから、自分が作中主体に成り代われないみたいなイメージが自分の中にあります。

―朗読の場合、作者本人がその口で語るので、意図せずとも「本人の言葉」というイメージがついてくる可能性もありませんか? …少し意地悪い質問ですが(笑)

本山:正直にいうと、生身の私が持っている属性で何かを判断されることにすごく抵抗があって、だからわがままを言って、全国大会のアーティスト写真もぬいぐるみの写真でお願いして。あれはささやかな抵抗だったんですけど(笑)。
自分の声を使って表現する以上、現在25歳女性の、こういう見た目でこういう属性を持った人間の声であることは逃れられなくて。ただ私が作品で作りたいのは、そこから離れたいときもあって。ステージ上のパフォーマンスの工夫でどれだけ生身の私から離れられるかは、今後の課題です。装置に徹することで、作品の質や装置へのなり方の質が向上して行けば、どんどん乖離させていけるものなのか。あるいはそこはそれとして、25歳女性の私が全く別の世界を歌っているという形で成立させるのか、いろいろ試して行きたいと思っているところです。

―楽しみですね! 朗読はもちろん短歌自体、続ける中で変化していますか? 

本山:短歌は9年目になるところですが、実はいま、既発表の作品をまとめた冊子を作ろうとしていて…仕事が忙しくて頓挫していますが(笑)。自分のために一回ふり返る冊子を作ろうと。
私が短歌でやりたいこと、求めることは変化しつつあるなと思います。最初はきれいな言葉、好きな言葉を使いたくて、さらに何首か集まることで私の好きな世界が生まれたらいいなと思っていました。根底にそれがあるのは変わりませんが、ここ1、2年くらい、さっきのお話とちょっと矛盾するんですが、ようやく生身の自分のことを歌おうという気になって。これは本当にまだ試行錯誤中ですけど。始めたばかりの頃からずっと、生身の自分とは違う世界、違う人のことを歌いたいという気持ちが強くて。短歌の中でなら違う世界が作れる、ここではないどこかに行ける…。それってある意味では、生身の自分から逃げ続けていることで、いいのだろうかと。
ほかの方が作った生身のその方を歌われているだろう短歌も、その面白さを引き出して読むことができなくて、それって勿体無い気がして。自分も、避け続けてきた生身の私のことを書いてみようと、最近やってるんですけど。今までのスタンスと真逆のことをやろうとしているので苦しくて、「こんなのが書きたいわけじゃない」って(笑)。
でも私、欲張りなのでどっちもできるようになりたいんですよ。いろんなことができる上で、短歌づくりも朗読も自分のやりたいものを選びたくて。装置としての朗読も、生身の私を歌う短歌も、いろいろ試したいなあという時期が、今です。

―すごく乗っている感じ! 苦しみながらも意欲いっぱいですね。

本山:そうですね。せっかく生身の体を持って生まれてしまったので(笑)。

【プロフィール】

本山まりの(もとやま まりの)

ときどき短歌をつくります。ひつじが好きです。

                         【取材・原稿 村田活彦】


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