地方とSNS、そして自分の動きのコミカルさについての考察
こんな話を書くつもりなんて微塵もなかったのに、今朝の仲高宏さんのnoteを拝読して、さらにはそのコメント欄に寄せられた(これまでお会いしたnoterさんからの)共感の数々に、まじかよわたしそんなに動きコミカルなのかよと恥ずかしさとともに自覚するにいたり、今この文章を書いている。
もういいよね、金曜日だし。今週はまじめなことを書きすぎて疲れたしね。
* * *
そう、昨日は関西から出張で福岡に来られた仲さんに、池松潤さんといっしょにお会いした。
そのようすは、上の仲さんのnoteや、おふたりのtwitterにくわしいので、ぜひそちらをご覧いただきたい。
個人的な感想をちょっと書くと、noteオトナ部の紳士おふたりを交えてのお茶会は、これまでのnoterさんとの対面とはまた違った趣で、新鮮で、学びの多い場であった。
同じおもしろい、でも、ただ“fun!”より、“interesting!”な感じ。
“ところで何でこんなにも長時間喋ってたんだっけ?全部はとても書ききれないけれどもsnsやネット上での情報発信って東京都心部と地方都市、もっと言えばそれぞれの生まれの地元で利用状況が全く違うよねなんて話は盛り上がった様に思う。
これは渡り歩いた人だけが感じる風の様なものなのかもしれない。”
って仲さんのnoteにもあったけれど、このあたりの話はほんとうにおもしろいなあ、と思った。
東京と地方に格差があるよね、って話はもちろんのこと、等しく「地方都市」でも、その地域ごとにようすが異なるよね、って話とか。
とくに、関西はやっぱり「しゃべり」が強くて、SNSで云々よりも、リアルの場でなにかでかいことやってばーん!と注目を集める、というほうがまだまだ強い、という話を聞いて、なるほどなあ、と思った。
その話を聞きながら個人的に思ったことは、「ああそうか、しゃべりで発散するほうが得意だったら、たしかにSNSって必要性が低いかもしれない」ということだ。
いろんな見方があると思うけれど、わたしはSNSはまだまだ、テキストでのコミュニケーションが得意なひとたちが集う傾向にあると感じている。今後は動画がもっともっと主流になって、変わっていくのかもなあと思いつつ、少なくとも今の時点では。
リアルで大きな声を出してぐいぐいいけるひとたちではなく、リアルではむしろおとなしくて、いろいろ考えてはいるのに自分の気持ちをうまく表現しきれない。そんなひとたちが、その消化しきれない、行き場のない気持ちや考えをインターネットに放っているのだと感じる。
自分がnoteのような場所を居心地よく感じるのも、まさにそうで。
頭の回転が遅いから、リアルの場でぽんぽん飛び交う会話のなかではどうにもことばにしきれないあぶれてゆく思いを、ひとりになったときに、自分の脳内と向き合って、ああでもないこうでもないと落としてゆく。
書いたり消したりを繰り返しながらテキストにしてゆくことで、そしてそれに反応してことばを返してくれる方々がいることで、救われている。
だからひとことでいうと、「内向き」のひとが「外向き」のベクトルを持てる場なのかなあと。
そうそう、だから妙にしっくりきたのだ。関西ではやっぱり「しゃべり」が強くて、SNSをがっつり使っている層はほんの一部だ、という話に。
最初っから「外向き」のベクトルを持つひとたちには、ああ、たしかに、いらないかもなあ。そう、妙に納得したのだった。
「発散」というキーワードもぽん、と頭に浮かんだ。池松さんもわたしも、いまは福岡に暮らしているが、関東圏からの移住組だ。
東京界隈に暮らしていると、自分の気持ちをそのまま「発散」する機会が、もしかしたらなかなかないのかもしれない。人が多すぎて、そのなかでうまくやっていくために、むしろ人々は素の気持ちを押し込めることに必死なのかもしれない。数日前にも訪れていた東京の空気感を思い出しながら、そんなふうに思う。
そんな中でnoteのような、「長文による思考のシェア」を中心としたSNSが流行るのは、もしかしたらとても日本ぽい現象なのかもしれない。
対して関西のひとびとは、リアルの場やしゃべりによるアウトプットにとても長けているようだ。関西はグローバルスタンダードに近いってよく聞くけれど、これもそのひとつかもしれない。
関東圏内にいたときは、インターネットって、等しく全世界で同じような温度感で使われているような感覚に陥っていたのだけれど、そんなことはないんだよなあと、最近とても実感している。
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さて。
ところで、仲さんに「動きがコミカル!」と言われた瞬間はよく覚えている。
お茶会がひと段落し、わたしは娘のお迎えへ、池松さんと仲さんはちょっと一杯やりにいくというので、全員立ち上がって、カフェの前でちょっとだけ立ち話をしていたときのことだ。
思えばこれまでも、リアルの友人知人から「手のふりが大きいよね」とか「動きがぬいぐるみだよね」とか、苦笑されながら言われることがあった。
これは、やっているときはまったくの無自覚なのである。指摘されてはじめて、たしかに身振り手振りが必要以上におおきかったことに気づき、わー、恥ずかし!となる。
なんでこんなふうになってしまうのか……。
と落ち着いて考えてみると、これもひとえに、自分は「口頭で何かを伝える」ことへの苦手意識がものすごくあるから、な気がしてきた。
よく、「会って話したほうが伝わるから」という常套句があると思うのだが、わたしは「いや、それは時と場合によるし、同じ場合でもひとによる」と思っている。
自分の気持ちをダイレクトに伝える愛の告白なら、どんなにつたなくとも直接会って涙ながらに言ったほうがいいかもしれないが、自分の伝えたい内容をなるべく「正確に」伝えたいとき、わたしの場合はかぎりなく、テキストのほうが向いている。
先にも書いたけれど、頭の回転が遅いのだ。考えていないわけではない。ゆっくり考えないと、自分の考えていることがまとまらないのだ。
だから、家族やよっぽど親しい友人をのぞいて、だれかとしゃべっているときはたぶん、常にびびっているし、常にあせっている。
それをなんとかカバーしたくて、身振り手振りが必要以上に大きくなってしまうのだと思う。必死なのだ。自分の脳内にある「もやっ」としたかたまりを、なんとか取り出そうと必死なのだ。
「なんかこう……」とか、「ほら、あの……」とか言っているときのわたしの手は、そういえば大いに謎の動きをしているなあと、冷静にふりかえると思う。空気中から何かを取り出そうとしているのだ、たぶん。必死だから。
なにもないんだけどさ、空気中には。
* * *
そんなわけで、何が言いたかったかというと。
わたしはたぶん、外向きにひととつながりたいあこがれを持ちながら、実際はたいへん内向きの人間なので、noteという場にいつも助けられている。
そしてきっと、noteを介してつながる方々とは、きっとリアルでお会いしてもそこまでびびらず、あせらず、お話できるんだと思う……と、まとめようとしたけれど、仲さんのnoteや、そのコメント欄に寄せられた共感を拝読するとどうもそうじゃないらしい。
30代も半ばに差し掛かろうかというのに、こんな調子でいいのだろうか。落ち着いて余裕のある女性にあこがれたまま、でもそうなれないところに自分の価値があると信じて、なんとかそんな自分を(あきらめとともに)受け入れてやりたい。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。