毎日、目にする景色
ずうっと背景に山があった。
2泊3日の宇和島出張中の話だ。車で移動していても、ほぼいつでも360度、ぐるりと山が背景にあった。
例外はみかん農家さんの畑(つまり山そのもの)に登らせてもらっているときで、そのときは上の方へ行くとぱあっと視界が開け、美しい海が広がった。背景は、青い空と青い海だけになった。それもすばらしかった。
だから山が背景にないのは山にいるときくらいで、それ以外のときはずうっと、建物や家々の背景は山だった。
* * *
毎日、目にしている景色って、どうしたってひとの思考回路や性格にかかわってくるよなあ。
山にぐるりと囲まれた数日間、そんなことを何度も考えた。
たった数日間、しかも今回わたしは風邪気味だったにもかかわらず、自分の心はとても穏やかで、むしろ癒やされているのを感じていたからだ。
もしこの景色のなかで暮らしたら、自分はもっと穏やかになれるんじゃなかろうか。勝手なぽっと出の妄想だけれど、そんなふうに感じたりもした。
関東から宇和島に移住した友人夫婦も、やっぱり宇和島のひとはおだやかでやさしいよと言っていた。そして何より、子どもたちが素直で、のびのびしていて、めちゃめちゃ挨拶するんだよ、って。とってもうれしそうに。
帰りの道中、駅で子どもたちが駅員さんに向かってはきはきと元気に挨拶をしていているのと見かけてびっくりした。わあ、気持ちいいなあと思った。
きっとここではごく日常の、あたりまえの光景。うまくいえないけれど、心の中でぼんやりと「ああ、あたりまえの温度が高いなあ」なんて思いながら、その光景をほほえましく見つめていた。
同時に、脳内では娘のことを考えていた。トラックがばんばん走り、排気ガスと騒音があふれかえる大通りを、自転車の後部座席で咳き込みながら通り過ぎる日常の風景を、思い返しながら、ちょっぴり苦いような気持ちになった。
* * *
べつの土地へ旅をすると、「日常」ということばに隠れた多様性を意識させられる。
自分が送る日常と、旅先の土地で流れている日常はずいぶん違う。
海外旅行はとてもわかりやすい例だけれど、国内でもその違いは大いにあるみたいだ。文化の違いや景色の違い、ことばの違い、ひとの性質の違い、ライフスタイルや考え方の違い。何が”ジョーシキ”なのかの違い。
もともと暮らし方には興味があるほうだったと思うけれど、子が生まれてからはよけいに「どこでどう暮らすか」が自分のなかの主要命題として、心のなかにずうっと横たわっている。
もともと、自分が積極的に選んだ土地や物件ではないので、住み替えをしたいという思いはこの数年間ずうっと抱えている。子の喘息っ気のこともあるし、自分の思考のこともあるし、今の環境がベストではないのは確かだ。
どんな景色のなかで、毎日を暮らしたいのだろう。
どんな景色のなかで、子に育っていってほしいのだろう。
我が家の「日常」を、どんなところでつくってゆきたいのだろう。
もちろんこれも、万人への正解があるものじゃない。快適な暮らしを求めて人間は文明を発展させてきたのだから、都会の高層マンションで暮らすことを選択するひとがいるのも理解できるし、一方で俗世を離れて山奥の人里離れたところで暮らすことを選ぶひとがいるのも理解できる。
じゃあ自分たちは、どんなところでどんな日常を過ごしたいのか。
頭のなかに、カーエアコンのレバーみたいに、両端に「都会」⇔「田舎」と書かれたメーターが思い浮かぶ。きっと我が家は、本格的な都会にも、本格的な田舎にも適応できないような気がする。それに、メーターの種類ももっとたくさんあるだろう。いろんなメーターを調整しながら、自分たちが楽しい、心地いいと思えるようなバランスを探ってみたい。
そう、もっと楽しく暮らしたい。
なんか違う、なんか違うんだよなあと思いながら暮らすことを、今年中には卒業したいなあ。
目の前のことに追われて後回し、後回しにしてきたこの命題。今年はちゃんと向き合って、形にしてゆきたいと思っている。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。