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筑前煮が簡単になっても

干ししいたけをもどす。お湯で。

いや、わかってる。たぶん水からじっくりとていねいに戻したほうが、より上品な味わいになるんだろう。なんとなく、そんな気はする。

パッケージはこう言う。「水もどしで2時間、お湯もどしで20分、電子レンジで4分」。いや、ちょっと待ってほしい。2時間て。2時間前に、よし、干ししいたけもどそっと!ってなるかよ。いや、なるひとも世の中にはたくさんいるのだと思う。計画的なひとびとだ。無計画な自分を基準にしてはいけない。ただ、わたしができないというだけの話だ。

独身でまだ作り慣れなかったころは、干ししいたけなんて筑前煮以外でめったに使わなかったので、筑前煮をつくるたび、直前にパッケージを見直して「は?2時間?無理やん」といちいち驚いていた。学ばないのだ。

家庭をもち頻繁に煮物をつくるようになってからは、さすがに干ししいたけのもどし時間は脳内にインプットされた。だが肝心の2時間前には思い出せない。結局、「よし、そろそろつくるか」と鍋をとりだし、材料を並べはじめてからようやく気づく。

“あ、干ししいたけ……”。

そのかすかな「あ……」という一瞬の戸惑いも、年々薄くなった。もはや最近は、つくる直前になって干ししいたけを見ても何も焦らず、当然のようにポットのお湯を注ぐようになっている。

干ししいたけにお湯を注いだら机において放置し、その間に野菜を切る。

まずは、水にさらす必要のあるごぼうや、れんこんから。春はれんこんが新鮮で、安くてうれしい。ごぼうも、普段の太くて固いごぼうじゃなく、やわらかくて細い、春ゴボウなるものが出回っている。

ジャッジャッジャッ。

包丁の背でごぼうの皮をこそげていると、なぜだか母のことを思い出す。

なぜだろう。そんなにいつも、ごぼうばかりを調理していたわけでもないのだけれど。

ただ、あの長いゴボウを、シンクの上で洗ったり、皮をこそげたり、別の料理でささがきにしたりするのは、当時こどものわたしにはむずかしく、母の仕事だった。きっとわたしは手伝いをしながら、横でそのようすをじっと見ていたんだろう。

ごぼうは、母アイテムだったのか。

そんな回想にふけりながら、母になったわたしはごぼうの皮をザッザッと洗い落とし、ざくざくと切って、水にさらす。

ごぼうとれんこんを水にさらしているうちに、他の材料を切ってゆく。

人参、ざくざく。たけのこ、ざくざく。

たけのこも、本当は生をゆがいたほうが別格だとわかっていながら、水煮のたけのこで楽をする。でもこれも、春は地元でとれた季節限定のゆがきたけのこが売っていたりする。ちょっと嬉しい。

なんだ、筑前煮ってどちらかというとお正月のイメージがあったけれど、実は春の楽しみ方もあるんだな。春ごぼう、春れんこん、春たけのこ。ああでも、薄味で食べてもおいしい旬のものを、わざわざ煮物にするのはもったいないって意見もあるかもしれないな。それも、わかるけど。

誰に話すでもなく、ひとりそんなことをぼうっと考えながら、圧力鍋にごろごろと材料を放り込んでゆく。

ほんとうは肉を炒めてから、次に野菜を入れるのだけれど、何度もつくるうちにザルが増えるのがめんどうくさくなって、切り終わった野菜からぼんぼん鍋に入れていくようになってしまった。それにうちの圧力鍋、肉だけ焼くとこびりつくのよね。

材料をひととおり入れて、おや、何か足りないぞとここで気づく。

こんにゃくだ。ああ、こんにゃく買い忘れた。

というか、煮物のとき、わたしはこんにゃくを買い忘れていることが多い。野菜売り場を回っているうちは「筑前煮の材料、筑前煮の材料……」と思いながらカゴに材料を入れているのだが、そこから離れると、もうべつのところに頭がいってしまって、「筑前煮」から離れてしまうのだ。

だからこれは、最寄りのスーパーの野菜売り場とこんにゃく売り場が遠いことが原因だ、ということにしている。肉じゃがのときには白たきを買い忘れ、筑前煮のときにはこんにゃくを買い忘れる。その事実に料理の途中で気づいて、愕然とする。やはり学ばない。こんにゃく、大好きなのに。

今日も今日とてがっかりしたが、今から買いにゆく気力も時間もない。はあまたかと自分にため息をつき、肉と野菜を軽く炒め、砂糖、みりん、しょうゆを入れて、圧力鍋の重たいフタをゆっくりとしめた。

“シュンシュンシュンシュン!”

圧力鍋に圧がかかってフタが鳴り始めたら、火をとめる。あとは予熱調理なので、ひたすら放置。その間に味噌汁をつくったり、魚を焼いたりする。

圧力鍋があると、煮物はびっくりするほど楽ちんだ。筑前煮も、昔より格段に手軽になった。ずっとそばについている必要もなく、途中で味見をしたり、火の通り加減をチェックする必要もないというのはほんとうに革命的だ。放置という調理法は、わたしに向いている。

味の違いに敏感な方は、やっぱりじっくりていねいに、ことこと煮た筑前煮をおいしい、と感じるかもしれない。食べくらべてみたら、わたしにもそのちがいがわかるのかもしれない。

たとえそうだとしても、まだ子の小さい今は、圧力鍋スタイルに大いにお世話になっているし、それでいいとも思っている。

とにかく筑前煮は、わたしのなかで簡単なメニューになった。

それでもふうわりと、煮物の甘じょっぱい、なんともいえないいい匂いが漂ってくると、やっぱりちょっと、母のことを思い出す。

干ししいたけをもどすときも、実はなんだか、母のことが頭に浮かんでいた。そういえば実家に帰ったとき、母が「筑前煮つくろうと思うんだけど、いまから椎茸もどす時間ないでしょ」というので、いやいやレンジでやればいいじゃん、と時短の方法を教えたことがあった。

そのとき、思ったのだ。

ああ、そうかこのひとは、わたしたちを育ててきた何十年間、干ししいたけをちゃんと水で戻してきたのだ、と。

ずぼらだの、抜けているだのと自分で自分をからかうのが常の母だが、わたしよりよほどちゃんとしているではないか……。

わたしが、自分の日常のなかでは干ししいたけをお湯でもどすことを当然よしとしながらも、なんとなく水のほうがよさそうとか、自分は手抜きをしているとか、そんな感覚が潜在的にあるのも、そんな母を見てきたからなのかもしれない。

いつか、わたしも干ししいたけを水で戻し、普通のなべでじっくりことこと、ていねいに煮込んだ筑前煮を、つくれるんだろうか。

鍋でことことはできる気がするが、干ししいたけを2時間前にもどす自分にはなれそうにない。ついでに、こんにゃくも毎回忘れずに買えるようになりたい。これはがんばろう。母への道のりは、長く遠い。

筑前煮をつくるのが、簡単になっても。干ししいたけをもどすたび、ごぼうを切るたび、母のことを思い出す。

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小中ぽこ(ぽこねん)
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。