30年前、自分と同世代だった親が買ったもの
飽きるほど慣れ親しんだ土地のはずなのに、時間が経ってから再訪すると、まったく違ったふうにその土地が見えてくる、ということはないだろうか。
連休のいま、ふるさとへ帰省している方も多いだろう。
その土地は、こどものころ見ていたのと同じ印象で見えているだろうか。
それとも、年齢やライフステージが変わるとともに、その土地の見え方も変わってきただろうか。
わたしは、完全に後者だ。
* * *
わたしの実家は、関東の郊外にある。
東京都心までは、電車でだいたい1時間半くらい。ドアtoドアなら2時間は見ていたほうがいい。
もともとは田園や山々が広がっていた土地だった。
そこを切り崩し、区画整備をし、わたしが小さなこどもだったころに、新興住宅地として続々と売り出された。我が実家もその中の一軒家だ。
だから雰囲気は、都会でも田舎でもない、中途半端な感じ。そんなふうに、昔のわたしは思っていた。
似たような見た目の家々が一本道にずらりと並び、計画された並木が緑を添える。整然とした、ある意味キレイな住宅地。けれど車で少し走れば、すぐに田んぼや畑や、昔ながらの家々が見えてくる。ヘビやたぬきも顔を出す。
大学の集まる東京まではやたら遠いし、でもぎりぎり通えるから一人暮らしもできない。そして、終電はめちゃくちゃ早い。ああ、どうせなら野山を駆け回って育ちたかったなぁ。島育ち、とかかっこいいじゃん。
田舎育ちほどのたくましさもなく、都会育ちほどのフットワークの軽さもなく。なんだか中途半端なアイデンティティ。あーあ、なんでこんな中途半端なところに、親は家なんて買ったんだろう。
いま書いてみれば、自分の性質を育ちのせいばかりにしてずいぶんと格好悪いが、まあとにかく、大学生のころのわたしは、よくそんなことを思っていた。
* * *
しかし、である。
そんな中途半端なはずの実家は、これまでに2度ほど、わたしの中で見え方が大きく変わった。
1度目は、20代後半に海外生活を経て、1年半ぶりに実家へ帰ったときである。
帰国当時は夏。実家では、庭で育てたゴーヤやトマトが食卓にのぼった。
途方もなく広い庭ではないが、手の届く範囲の小さな庭がある一軒家。ハーブやちょっとした野菜を、自分たちが楽しむだけ育てて、採れたてのものが少し、食卓に並ぶ生活。
そんな、私が海外放浪をしたあげくにぼんやりとつかんだ理想のイメージ「手の届く範囲の小さな庭を楽しみながら、日常を楽しむ暮らし」が……、あれ? なんだ、ここにもあったんじゃないか、と気づいたのだ。
大学を卒業して、会社に就職して、3年働いてやっぱ日本なんか違う!と飛び出して。海の向こうで答えを探していたつもりだったけれど、探していたものの根底は、なんだこんな近くに存在していたのか、と思った。
もちろんそれが100%の理想ではないのだけれど、そういう「いい面」に、昔は気づくことすらできなかったもの。
* * *
2度目は、昨年の10月。
自分に子どもが生まれてから、初めて子連れで実家に帰ってきたときである。
このときは1度目よりもわかりやすく、よりクリアに、目からウロコ!というほど見え方が変わった。
子連れというライフステージの変化が、場所の価値を根底から変えてしまうのだ。表現を変えれば、捉え直す、である。
何にもない、と思っていたその土地は、子育てしやすい環境の宝庫だった。
運転しやすい広い車道に、ベビーカーですれ違ってもゆったりと歩ける広い歩道。外国の映画のような大きな街路樹がのびのびと並ぶバス通り。高い建物がなく、ひたすらに広い青空に新緑がよく映える。
季節の花々や木々が彩る緑道は、車の心配もなく、散歩するにはうってつけ。緑道沿いには遊具のある公園が配置されていて、子どもたちで遊びに行くのにも安心だ。通学でも日常的に通る道に、身近な自然が溢れている。
徒歩圏にはなんでもそろう大型ショッピングセンター。授乳室やベビーカート、ちょっとしたキッズスペースもあり長居ができる。
調整池は無機質なコンクリートで囲まれた水たまりではなく、岩で囲んで広く公園として整備し、ランニングコースや散歩コースに。林に囲まれた自然の湖のような美しい景色が広がる。
徒歩圏でも行ける大きな自然公園。県内のいろいろなところからも遠足に訪れるその公園は、アスレチックや広々とした芝生の広場があり、子連れにはもってこいだ。もちろん大人も、お花見に紅葉狩りにと、季節の移ろいを感じながらの散策が楽しめる。
なにより、街全体が、ゆったりと広々と設計されていて、余裕がある。人々と自然のバランスが心地いい。車の音より、鳥のさえずりや、風が木の葉を揺らす音が耳に入ってくる。
ベビーカーを押して歩くたび、今まで見えていなかったひとつひとつの要素が浮かび上がって、「ああ、そうか、そうかぁ……」と感動していた。
* * *
かつてこの土地の大規模開発を担当していた不動産会社はもう撤退してしまったが、わたしは今さらながら、「ああ、彼らのやりたかった街づくりはこういうことだったのかぁ」と、勝手にひしひしと感じたのである。
そして、「約30年前、親たちがここに家を買ったのは、そんな街づくりのイメージに惹かれたからなのだろうな」と思った。
緑のあふれる街並み。広々とした贅沢な空間。芝生や緑道をかけてゆく子どもたちの元気な笑い声。
中途半端、とどこかコンプレックスのように感じていたポジションも、捉え直せばむしろ、自然豊かな田舎と便利で文化的な都会、どちらにもアクセスしやすい「ほどよいバランス」「絶妙なバランス」と言い換えることができた。
東京の会社に通勤しながら、子どもがのびのびと育つのによい郊外に、落ち着けるマイホームを持つ。価値観はそれぞれだし、私自身マイホームにこだわりもないのだが、きっと親たちはそういった暮らしのイメージを持って、この家を買ったのではないだろうか。
まだ何もわからない私たち兄弟を育てるなかで、これからの暮らしを考えて、未来を考えて。そして数千万円を出して、その未来を買ったのだ。
たぶん、きっと、推測だけれど。
* * *
そうして一巡して、自分の子を連れてこの地を訪れて。
この連休が、子連れでは2度目の帰省だ。
かつてこの土地で、この同じ家で、子育てに奮闘していた父と母を思う。目を閉じて、イメージしてみる。
必死で毎日を過ごす父と母。その周りでワーワーキャーキャーさわいでいる、かつての、こどもだった自分たち。
同世代の父や母と、同じ空間、同じ境遇を共有していることを、不思議に感じる。
同世代の親といま、会話ができたら、どんなことを話すだろう?
そして自分の子も、いつかそんなふうに思いをめぐらせるときがくるだろうか。
そんなことを考えながら広い空を見上げる、帰省中。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。