さくらんぼと、雨の日の無駄なエッセイ
雨の日だ。
夫はひさびさの飲み会へ出かけた。
5ヵ月の娘はすうすうと気持ちよさそうに眠っている。
そんな夜は、無駄にエッセイが書きたい。
* * *
べつにとりたてて今書きたいことがあるわけじゃない。
ただこんな夜が貴重すぎて、自分ひとりのためだけに費やすことのできる(以前は当然のようにあった)この静かな数時間が本当におどろくほど貴重すぎて、ひさしぶりにPCに向かい、なんでもいいからつらつらと文字を打ってみたい、そんな単純な欲求があるだけだ。
君それは手段の目的化だよ云々カンヌン。
いやはやおっしゃるとおりで(それの何がいけないのかね?)。
偉い人から諭されようと何しようと、とりあえずこんな夜は、エッセイが書きたい。
我が子の喜ばしい成長とともに腱鞘炎が悪化して、テーピングでガチガチに固めた両手にはムチ打って悪いけれど(笑)。
* * *
夕方、実家からさくらんぼが届いた。
正確にいうと、実家の手配した農家から届いた、のであるが。
というわけでもちろん今、PCの横にはさくらんぼを置いて、旬の味わいに幸せを噛み締めつつこの駄文を打っている。
口に入れてかじった瞬間、ぱちっと皮が弾けて、口の中にしゅぱっと広がる甘みと酸味。うーん、あまい。うまい。初夏だ。
他の果物も大好きなのだが、さくらんぼはさくらんぼだけの、なんともいえない幸福感がある。
* * *
今は関東で暮らす私の両親だが、出身はさくらんぼで有名なあの県だ。
そういうわけで、私がこどもだった頃も、このくらいの季節になると親戚から毎年のようにさくらんぼが届いた。
裕福なご家庭のことは知らないが、とりあえず我が家にとって、新鮮なさくらんぼを味わえる貴重な機会は、1年に1度、その贈り物だけ。
家で購入するリンゴやバナナやみかんや、そういう食べ慣れた果物とはまた別の特別感が、そこにはあった。
何よりまず、新鮮なさくらんぼってまず見た目からしてつやつやとしていて、光をきらきらと反射して。
薄くやわらかな皮の中に、限界まで果肉と果汁を閉じ込めて、ぷっちりと、ああもう弾ける寸前ですよ!というあの感じ。
大きさも「どんっ!」という威圧的な感じじゃなく、つつつましやかに可愛らしい粒で、それが箱のなかに光沢感をもって並んでいて、なんだかまるで宝石みたいじゃないか。
そして口に含めばあの、ぱちっ、しゅぱっ、と広がる優しい甘酸っぱさ。
そんなすべてが相まっての、特別感があった。
* * *
そんなわけでさくらんぼは私にとって、両親の故郷の県を象徴するようなポジションにある。
つまりこんな雨の日、さくらんぼを片手に物思いにふけっていると、自然と、親戚や祖母たちのことを思い浮かべることになる。
この春、母方の祖母が亡くなった。
祖母は私が中学生くらいのころから認知症になり、施設でお世話になっていて、孫の私はもちろん、自分の娘である母のこともわからなくなって、もうずいぶん長い時が過ぎていた。
こどものころは毎年、お盆に両親の帰省とともに私も祖母のもとを訪れていたけれど、高校生以降は数えるほどしか行っていない。施設に入ってからは、私が行ったのは一度だったんじゃないだろうか。人によっては疎遠で、ドライな距離感だと感じるだろう。
それでも、記憶というのはすごいのだ。
祖母が亡くなったとき、生まれて間もない娘を抱えて駆けつけることもできずに弔電を打ったのだが、そのとき、ひとりしずかに、「おばあちゃんとのエピソード」を思い返して真っ先に浮かんだのは、最新の記憶ではなく、元気だった祖母がお盆に帰ると作ってくれていた芋の煮っころがしのことだった。
私がまだ小学生のころ、帰省先でごちそうになった祖母の芋の煮っころがしが美味しいと言ったのを覚えていて、次の年に帰ったときもまた、美味しい芋の煮っころがしを作ってくれて。
またそれを食べて美味しいと言う私に、伯母さんが「これはばあちゃんが作ってくれたのよ」と教えてくれた、そのシーンがなぜか残っている。
毎日使っていた数学の公式や必死で覚えた歴史の年号をきれいさっぱり忘れても、そんな日常の、何気ないひとコマが何十年も記憶に残る。
* * *
そんな小学生もおとなになり、この1月に娘が生まれて母となった。
里帰り出産はしなかったので、産後ひと月ほど、遠方から母に泊まり込みで手伝いに来てもらっていた。
聞けば、私の母も、産後は自分の母、つまり私の祖母に手伝いに来てもらっていたのだという。
長らくの間、なんだか遠くに感じていた祖母だったが、なかなかどうして、疎遠だなんだといおうと言うまいと、私が何もわからない乳飲み子のとき、もうそれはがっつりとお世話になっていたのだった。
泣き叫ぶ生まれたばかりの我が子をみながら「これがかつての自分だった」と思い、睡眠不足と闘いつつボロボロの疲労状態にある自分を「これがかつての母だった」と思い、そんな孫と娘を先回りして全力でフォローしつつ、こまごまと家事をしてくれる母を見て「これがかつての祖母だった」と思う。
こんな風景が、きっと自分が新生児のときにも繰り広げられていて。
そうしてひとまわりして、今のこのときにつながっている。
* * *
何を書こうかと、決めることもなく頭に思い浮かぶことをつらつらと紡いでゆく、雨の日の夜。
窓の外からは時折、水の溜まった道路を走る車の音がサーッと、聞こえてくる。
ちょうどよい静けさ。
さくらんぼを食べ終えて、気が済むまでだらだらとテキストをここに打ち終えて。
ひさしぶりのおひとりさま気分を、十二分に堪能したから。
そろそろまた、愛する娘のもと母の顔に戻ろう、戻りたい。
そう思えたぶん、このエッセイも私にとってはひとつの効用はあった、らしい。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。