ナワニワトモアレを読んでいる
最近、ひたすらナニワトモアレを読んでいます。
最近というかここ4日ほどで第一部の「ナニワトモアレ」を読み終え、今日から2部の「なにわ友あれ」に入ったところです。
きっかけ
まあ読み始めたきっかけは単純で、ザ・ファブルが好きだからです。
ファブルの連載が終わってしまってしばらく経ち当然新刊は出ないのですが、いかんせん体が欲してる為、少しでもその空気感を欲しくて読んでみた、という感じです。ぼちぼち禁断症状が出てきました。
めっちゃ良い
もう読むのが止まりません。面白い。
何が面白いって、言い出したらキリが無いのですが、敢えて1つ重要なポイントを挙げますと
ストーリーの為に人が動いてるのではなく、人が動いた結果がストーリーになってる(感じがする)
です。
個人的に漫画を読んでいてこれが最重要だったりします。
作者の作為が見えたらちょっと冷める
冷めても好きな作品はいっぱいあるのは先に言っておきたいですが、やはりこの「人が動いてストーリーができる」が好きです。
それが事実でなくとも、当然作者の頭の中には未来が存在して、それに向かって動いていくのでしょうけど、でもその「臭い」といいますか、その辺がストーリーテリングの味噌だと思ってます。
ストーリーより人
結局これが好きなんだと思います。
ストーリーが劇的で、下げて下げて下げて…爆アゲ!みたいなのとか、とにかくカッコよくてアツい!辛い後に大逆転!とか、そういうメリハリのある作りが好まれるとは思うのですが、慣れてくるとちょっときついこともありまして。
というのが、もう漫画を読んでいると、
A:主人公が順調だぜってノリであるor勝利の方法を読者に伝えてる
→大体負ける・失敗する・痛い目に遭う
B:できれば遭遇したくない強敵or力を温存しているラスボス
→必ず遭遇する・最後まで出し切る
そういう、「メリハリつけてますよ!」「逆転ありますよ!」が見え見えになってしまって、もう主人公がイケイケなほどダメ、悩んでるほど良い、みたいな、脳内で反転して読む癖がついてしまうんですよね。
結果が「ありきたり」になっちゃうという。
それが、人が主体で動くと、意外とバトル結果があっさり決まったり、あたかも人が良さげな感じで登場した新キャラがそのまま良い人だったり、伏線っぽい演出も勘違いだったり、みたいな事が起こりがちで、結果先が読めなかったりします。もしくは先を読めるヒントがちゃんと人間見てたらあるといますか。
ファブル読んでいたときもそういうことを強く感じました。
山岡編なんかは、普通に演出するなら絶対まず前段階の強敵としてアザミ戦が数巻とかになる。
アキラも段々強敵に楽勝ではなくなって、勝つか負けるかの接戦になっていく、みたいなノリになったりする。
でもそんな無理に作る起伏が無いことで、人のキャラクター性に整合性を感じます。
ナニワトモアレも同様ですね。キャラが設定に合わせて動いてるのではなく、キャラの動きで読者の脳内に設定が組み上がっていく。
今では考えられない時代背景
環状族という、自分の年齢や育った環境的に遭遇することがなく、最早「漫画の世界」である環状族の行動がすごく刺激的です。
飲酒運転も当たり前、暴走ももちろん、喧嘩もする。
理性のあると思い込んでるキャラも喧嘩をする。ここで自分が勝手に自分の現在の感性で「理性があるから喧嘩とかしないよな」と思い込んでることに気づく。ヒロとか。
まず自分の脳内をチューニングする楽しさがあります。
でも人の良さに溢れている
そんな今では非常識、白い目で見るであろう人種なはずなのですが、正直現代の感性に合わせた物語よりも”良い人”だらけに感じます。
人間の魅力と時代背景を混同すべきでない、と実感します。
とはいえ良く今も出せるなあという
kindleで買ってるのですが、まさに「当時の時代背景を鑑みそのまま収録しています」的な感じがあります。
読む人が読んだら「こんなの子どもが読んだらどうするんだ!規制!」と言われかねない内容です。
でも、別の読む人が読んだらその中にある人の魅力、漫画作品としての魅力に取り憑かれることだろうと思います。
いやー南先生の作品は最高です。