はじめまして。 阿形 紀螺(あがた きら)です。 よろしければ、 きら と呼んでくださいね。 2ヶ月前は、真っ暗闇の中を足掻きながら、でも、どうすることもできず、ただただ目の前にある『〇〇をしなければならない』『〇〇であるべき』に縛られて生きていました。 そこから脱することができたのは、自分の限界を受け入れられたからです。 最初は、『負け』『逃げ』だと思っていました。 でも、違っていました。 人であることさえ忘れ、後ろ向きな気持ちに囚われることは、生きていないのと同じだ
ふっと、唐突に 自分が自分ではない感覚に気づく時があるんだ。 自分ではない感覚というか、確実に俯瞰の自分が、自分を眺めている感覚。 それを否定しつつも受け入れて、何事もないかのように過ごしていると、また普通に戻る。 もしかして、その瞬間、自分は異世界から自分を眺めているのかもしれないなどと思っちゃう。 実は、今こうして息をしているこの空間が異世界だったら面白いな。 自分は同時に幾つかの世界で生きているって考えるのも楽しいね。 こうに違いないとか、こうあるべきとか。
あの空へ あの日 父が昇って行った 青空が広がる空へ 私も連れて行って欲しいと 泣き叫ぶようになった母 どうか母を連れて行ってくださいと 心の底から願った私 自分の幸せは 他の人には決して理解できない 死ぬことが幸せなら 願いが叶えばいいね 私は 私を 生きるよ 母の手を離した私 あなたもいつか 気づくといいね どんなに辛くても 生きてさえいれば 涙が流れるほど 心が震えるほど 幸せに包まれる日もあると あぁ きっと知っているんだね だから 終わりたいと
人と心を通い合わせたいと思う。 お互いに向かい合いたいと思う。 思いやりを持って相対せば、 心は伝わると思いたい。 そんな願望は、時に打ち砕かれる。 大いなる情熱を持って向かっても平行線。 挙句は、面倒がられ、背中を向けられ、 シャットアウト。 なぜ?と思うのは、思い上がりだ。 相手の気持ちを、本当に思いやることができるなら、そっとしておくべきなのだろう。 友人、知人ならそれでいい。 もしそれが職場の上司や同僚であったらどうだろう? 家族であったら? 仕事は、大抵
先日、テレビで鬼滅の無限列車編を観た。 私は劇場で一度観ている。 あの時は、BGMの迫力とアニメ自体の美しさ、それこそジェットコースター並みの展開に翻弄され続け、あっと言う間にエンディング。 マスクの中は涙と鼻水で大変な状態になってしまった。 ラストのLiSAの『炎』で更に号泣。 自分の中で過去最高に心をふるわせた映画だとまで思った。 あれからおよそ10ヶ月の時を経て観たこの映画は 一度目よりももっと心に響いた。 それは、自分と炭治郎や煉獄さんとが重なり合うと思えたシ
世の中には、人知を超えたものがあると思う。 でも、大抵の人は『そんなことあるわけない』と思い込む。 人は、 信じたくない 見たくない と思うものは、簡単に無かったことにできる生き物だから。 逆に、 こうあって欲しい と思うことは、信じ難いものでも、無理にでも信じようとする。 現実だと思いたがる。 それでいいんじゃないだろうか。 僅かでも、 今日が 明日が 希望ある日になると思えるなら。 訳あって、長く家を空けていた。 私がやるべきことのために。 でも、その場所は私