いつわりの愛
仕事が休みの今日は、筑前煮など常備菜と、お昼用の焼きそばをパックに詰め、夫の実家へ行った。
固いものが食べられない義父には、ドラッグストアの介護食やプリンを買っていく。
自分の中に、こんな献身的な心があったなんて意外だった。
でも、これは本当に愛なのだろうか。
片道1時間半の道中、ふとそんなことを考える。
元気だったころ、義父の話はいつも「よう聞け」で始まった。
またか、と思いながら黙って聞く。
何度も聞いた話のひとつは、「年の暮れに、人がお礼を持って来るような人間になれ」だった。
お礼を持って挨拶に行く者と、誰かがお礼を持って来る者とでは、二倍の差があると。
ギブアンドテイクの、テイクを予想したようなギブ。
それも尊敬できないひとつだった。
反論したかったけれど、嫁の立場でそんなことはできなかった。
子どものころから、「人に会ったら、何かお礼を言うことがなかったか、まず考えよ」と父親に言われて育った。
大切なのはその心だと。
でも、義父にとってのモノサシは心よりお金で、それがどうしても好きになれなかった。
そして今私は、好きではなかった義父の手を握り、プリンを食べさせ、優しい言葉をかける。
言葉に嘘偽りはない。
でも、私の中にある黒い塊のようなもの。
誤解のないよう付け加えれば、遺産が目的というのは残念ながら、ない。
そして、それが何なのかようやくわかったような気がした。
これはもしかしたら、義父へのリベンジなのではないかと。
私は、何の見返りがなくても、こうして人に優しくできますと。
尊敬する父が教えてくれましたからという、無言の反論でないのか。
もちろん純粋に、病の床にある人への思いやりもある。
その両方が交錯するのだ。
お互いの実家は数キロの距離。
義父母の家からの帰り、空家になっている実家に立ち寄る。
仏壇の花とコップの水を替え、手を合わせる。
お線香1本が燃えてしまう間の、短い里帰りだ。
両親の遺影を見上げて、私がんばってるよと自慢する。
応えは返ってこないけれど、ここに生まれた矜持を胸に、1時間半の道を再び帰ってくる。