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《感謝》の顕し方(エッセイ)

高校3年の時、大学進学後の奨学金給付生募集があった。
地元の企業からの「給付」、つまり返さなくて良いお金で、しかも、その会社に就職しなくてはいけないなどの「義務」も一切無かった。
金額はそれほど多くなかったが、それでも安アパートの家賃ぐらいに相当する額だった。

募集枠は3人で、そこに、同じ高校からボクを含む男子3人と女子1人が応募した。
女の子は、その学年で常に数学の成績がトップであり、最難関医学部志望の天才!だった。
面接試験の結果、彼女ひとりが落とされ、文系2人、理系1人(ボク)のいずれも男子が、現役合格すれば4年間の給付が約束された。
数学トップの彼女が落とされた真相はわからないが、ひょっとしたら、当時は普通に横行していた、ジェンダー差別だったかもしれない。
面接官はオーナー企業だったその会社の《番頭》のようなおじいさんで、髪を肩まで伸ばしていた僕は、面接の時に頭をつかまれ、
「なんだ、この髪は! 短く刈れ!」
と耳もとで怒鳴られた。
(これで「落ちた!」と覚悟したが……)

高校3年にして、
《金のために不条理に耐える》
という「試練」は、意外なほどに、悪くなかった。

その前年、高校の文化祭で無許可ひとり企画《乞食》を実行したが、むしろに坐り、襤褸ボロをまとい、目の前の空き缶に10円玉を投げ込んでくれる大人たちに、
「ありがとうございます」
と深々と頭を下げる、その感覚と同じだった。

奨学生は毎年正月に集められ、その会社の社長の話を拝聴する。
会社創業者である彼の父親が、戦前に息子、つまり現・社長が大学入学時、その奨学会を設立して「ご学友」の学生生活を援助したのがきっかけだったそうだ。

入学した年にほとんど授業に出なかったボクが留年していることがバレた時、当然《奨学金打ち切り》を覚悟した。
しかし、新年会で声をかけてきた《番頭じいさん》は、
ワシらは1度見込んだ人間を、そう簡単に見捨てはせん。ただし、奨学金は4年間だ。5年目は出んからな」
と言った。
ボクはじいさんの後ろ姿に、素直に頭を下げた。

ボクは無事(?)5年で卒業し、結婚と同時に大学院に進学することを決めた。

この時、《番頭じいさん》に長い手紙を書いた
4年間の奨学金給付への《感謝》、無事(?)5年で卒業し、大学院に進学する抱負……。

かなり迷ったが、結婚することは書かなかった。高校3年の時にボクの長髪をとがめたじいさんを、下手に刺激するのは賢明ではないだろう、と思ったからだ。

そして手紙の最後に、なんとか修士課程の2年間、奨学金を受けさせてもらえないだろうか、と書いた。

じいさんからは「激励」の返事が来て、ボクには2年間、学部時代よりわずかに増えたお金が振り込まれた。

その2年間の生活は、代替教員の妻の給料、ボクの育英会奨学金貸与、教授の息子の家庭教師代(将棋とキャッチボールと算数)、そしてこの奨学金給付によって支えられ、2年目の夏休みにはソ連領中央アジアの旅に出ることも叶った。

修士課程を終え、Uターン就職した後、育英会で借りた奨学金返済が重くのしかかってきた。
ようやくこの「借金」を返し終えた時、心から安堵したが、同時に、額はこれよりかなり少なかったものの、「返済無用」の給付奨学金を支給してくれた地元企業に、改めて、

《感謝の思い》

を抱いた。
ボクは30代半ばになっていた。

その企業が消費者相手のメーカーや小売だったら、そこの製品や販売店を贔屓ひいきにすればいい。
でも、そこは、企業相手に資材を納める商社だった。

《感謝の思い》をどうあらわせばいいだろうか?

いろいろ考えた末、貯金をはたいて、2部上場企業だった、その会社の《株》を買った

以来、決して多額ではないが、その会社の株式を、いい時も悪い時も、ずっと持ち続けている。

── 自分では感謝しているつもりかもしれないけれど、その気持ちは相手に伝わっていないんじゃないの?
あなたはそう言うかもしれません。

でも、ボクは思うのです。

《感謝》の本質って、《自己満足》なんじゃないかな。

── その会社からは、年に2回、《株主優待》のお米が届き、ボクの家ではほとんどお米を買うことがありません。

《感謝》のつもりで行っていることなのに、先方もボクに感謝し続けている。

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