続「本社・工場」ってどこ?──ついに本郷通りへ (エッセイ)
かなり個人的なエピソードを読んでいただき、ありがとうございます。
前回からの続きになります。
「大きく見せた」自己の実現に向けて八面六臂状態で働く社長、経理担当に巻き込まれた家主夫人Mさん、いつ去るかわからない営業マンS氏、そして、電話番はじめ雑用全般をこなす僕の妻。
── 4人しかいない会社から、半年働き仕事を覚えた妻が抜けるのは、大きな打撃であるのは間違いなかった。
しかし、産休代替とはいえ、教職の仕事は給料面でも福利厚生面でも、バイトとは比べ物にならないほど魅力的であり、彼女は転職を決めた。
その後、修士課程を終えた僕は、故郷の街に戻って就職した。
1年半ほどが過ぎた頃、所用があり、夫婦で上京することになった。
以前の同僚でもある家主のMさんを訪ねてみたい、と妻が言うので、久しぶりに湯島で地下鉄を降りた。
4階建てビルの3,4階に住むMさんは、我々をとても歓待してくれた。
「あの会社、まだ続いているんですか?」
妻が尋ねると、
「続いてる ── どころか!」
経理担当、今では《元》がアタマに付くMさんは、大きく目を輝かせた。
「あの頃は2階のひと部屋だけだったじゃない? 1階部分を貸してた会社が出て行った跡に、オフィスを移したのよ。2階も全部借りて、今は倉庫に使ってる。気が付かなかった?」
そして、連絡を受けた《社長》が3階に上がってきた。
「おう、久しぶり! これ、見てくれよ。ウチのカタログ作ったんだ!」
それは、厚みが1センチほどもある、全ページカラー写真の医療用品カタログだった。背表紙には社名が大きく掲げてある。
「相談受けた時、わたしは反対したのよ。印刷に目玉が飛び出すほどお金がかかってるんだから」
元・経理担当は言った。
「いやあ、商売ってのはね、こういう《玄関》にあたるところを立派にしておくのが肝心なのさ」
社長は相変わらず、意気軒高だった。
「このカタログ、1冊持ってってくれよ!」
何度も僕らに押し付けようとしたが、いえ、それはお客様用でしょ、と固辞した。
《右腕にならないか》と言われた時から、3年ほど経っており、《社長》は31歳のはずだった。彼の顔も体も、以前と比べ、ほんの少しふっくらしていた。
(……余裕ができてきたんだろうな)
「帰る前に、必ず事務所に寄ってくれよ。社員たちに引き合わせるから」
必ずね、と何度も繰り返しながら階段を降りて行った。
30坪ほどの1階フロアには、《社長》の他、10人ほどの部下がいた。
女子社員は制服らしきものを着ていた。
社長は部下全員を起立させ、僕らを紹介した。
「創業期にたいへんお世話になった、会社の恩人、Tさんご夫妻だ」
全員が、僕らに頭を下げた。
インベーダーゲームに熱心だった、流れ者・S氏の顔はもうそこに無く、それは僕を安心させた。
地下鉄の階段を降りながら、妻がつぶやいた。
「……お世話になったっていっても、半年間バイトしてただけなんだけど」
「たぶん、見せたかったんだよ」と僕は言った。
「苦しい時代を知っている人間に、── 《成功》したことを」
「……でも、ひとり、いたわね」
妻の言う意味が、僕にもすぐわかった。
「ああ、いたいた、── 課長だって紹介してた人だろ?」
「そうそう」
部下の中にひとりだけ、年齢は《社長》と同じくらいだけど、有能かつ信頼できそうな男性社員がいたのだ。
「── あの会社、大丈夫かもしれないね」
「── そうだね」
その人が、《社長》の《右腕》なんだろう、と僕は思った。
その後、僕たちにもいろいろなことがあった。
子供がふたり生まれ、《再勉》のため3年ちょっとの間、渡米していた。
帰国して数年経った頃、《社長》から、とても立派な封筒が届いた。
《創業20周年と新社屋への移転記念パーティー》への招待だった。
パーティーには、妻が元・経理担当のMさんと共に出席し、50人近い出席者の前で、またもや、《過分なる》紹介を受けたという。
その後長らく、《社長》とは、印刷された年賀状をやりとりするだけの付き合いになっていた。
ある年の年賀状に、
ついに、本郷通りに進出しました。
との手書きが添えられていた。
「……これって、すごいことなんだろうな」
「……そりゃ、そうでしょ。だって、本郷通りだよ」
そして、その後、彼からの連絡は途絶えた。
〈最終回につづく〉