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【消えゆく青】
地球にブラックホールができたのは、2029年10月12日のことだった。誰も予測していなかった。宇宙の果てでしか生まれないとされていた重力の怪物が、地球の表面に忽然と姿を現したのだ。
最初に気づいたのは、南アメリカのアタカマ砂漠で天文学の観測をしていたロザリオ・アルバレス博士だった。彼女は深夜の観測データに異常が出ているのを見て、誤作動だと思った。何かが空に浮かんでいる。しかし、それは雲でも、惑星でもなかった。小さな、しかし圧倒的な存在感を持つ「点」が、何もないはずの空に刻まれていた。
数時間後、同じ「点」が世界各地の観測所でも確認された。異変が広がり始めるのに、時間はかからなかった。
最初の兆候は、まるで大気が「どこかへ」吸い込まれるような、微妙な風の流れの変化だった。次に報告されたのは、動物たちが異常に敏感に反応し、街中で騒ぎ立てる光景だった。人々は不安を抱きつつも、ブラックホールなどという発想は誰も考えていなかった。
だが、観測所に送り込まれたデータが揃い始めたとき、事実は明らかになった。
「ブラックホールだ」
ロザリオ博士はその瞬間、冷たい汗が背中をつたうのを感じた。地球の表面に現れたこの「点」は、質量を持ち、周囲の物質を引き寄せ始めていた。それはまさにブラックホール、しかもそれがなぜか地球上に発生していた。
「どうして……こんなことがあり得るの?」ロザリオは思わず独り言を漏らした。ブラックホールは、恒星の崩壊や超新星爆発の結果としてのみ生まれるはずだ。それがどうして地球上に?物理法則が、何か異常をきたしているのだろうか。
ニュースは瞬く間に世界を駆け巡った。各国政府は緊急会議を開き、科学者たちは一刻も早く原因を突き止めようと奔走した。しかし、ブラックホールの存在そのものが驚異的であり、誰一人としてその解明には至れなかった。原因もなければ、対策もない。
地球に発生したブラックホールは、最初はほんの小さな点にすぎなかった。しかし、それは静かに、確実に成長し続けていた。最初に影響を受けたのは、南米の荒野だった。山々が少しずつ崩れ、草木がゆっくりと引き寄せられ、やがて音もなく消えていく。
科学者たちが予測した最悪のシナリオはこうだった——ブラックホールは無限に成長し続け、やがて地球そのものを飲み込み、消滅させる。
人々は次第に恐怖に包まれた。都市から人々が逃げ出し、各国はパニックに陥った。世界経済は崩壊し、秩序は瞬く間に失われた。
だが、そのとき、ロザリオ博士はふとある仮説にたどり着いた。
「もしかして、このブラックホールは……私たちの意識が作り出したものなのでは?」
彼女は、自身が数年前に参加していた極秘プロジェクトを思い出した。それは「意識と現実の関係性」を探る実験だった。物理学的にはあり得ないことだが、もし人間の集団的な不安や恐怖がこの現象を引き起こしたのだとしたら?ブラックホールが地球に現れたのは、もしかしたら人々の内なる破滅への恐怖が具現化したものかもしれないのだ。
彼女は急ぎ、その仮説を発表した。だが、多くの科学者やメディアはそれを荒唐無稽と一蹴した。恐怖と混乱に支配された人々に、そんな仮説を受け入れる余裕はなかった。
ブラックホールは拡大し続けた。それは、まるで青い惑星をゆっくりと飲み込む黒い牙のようだった。
だが、ロザリオ博士は諦めなかった。彼女は少数の科学者たちと共に、新しい計画を立てた。それは、地球全体を巻き込んだ「瞑想」だった。人々が心を落ち着かせ、ブラックホールへの恐怖を取り除けば、もしかしたらその成長を止められるかもしれない。全世界が一斉に平和と安寧を願うことが、この危機を乗り越える鍵だと。
不可能に思えた。しかし、他に選択肢はなかった。
全世界で「集団瞑想」の運動が始まった。最初はほんの一握りだったが、やがて各国で支持を集め、人々は静かに目を閉じ、心を一つにすることを試みた。
ブラックホールは、ゆっくりとだが、その拡大を止めた。まるで人々の意識に応じるかのように。恐怖と絶望に包まれた地球に、わずかな希望が灯ったのだ。
それから数か月後、ブラックホールは消滅した。なぜ現れたのか、そしてなぜ消えたのか。科学的な答えは誰にも分からなかった。
しかし、ロザリオ博士は知っていた。地球を救ったのは、人々の心の中に潜む力だったのだ。
青い空が戻り、世界は再びその日常を取り戻していった。
そして、ロザリオはそっと一言呟いた。「私たちは、この世界そのものなんだ……」と。
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