【掌編小説】土佐堀川
テーマ:「戦争」 ジャンル:一般文芸
外出先での用事を終え、美織は土佐堀川沿いの道を歩いて会社へ戻る。
腕時計を見ると、午後二時を回ったばかりだ。
予定よりもずっと早い時間に会社に戻れそうだ。
といっても、手早く用が片付いたわけではない。
客から、予想だにしないクレームを受け、すごすごと帰るところだ。
会社に戻ったら戻ったで、「能無し」をオブラートに包んだ言葉を上司に投げつけられるだろう。
自然と歩くペースが遅くなった。
脇を流れる川に、どろりと目をやる。
川にかかる橋も、ビル群も、頭上の高速道路も、銀色に光っている。光るために光っているような、都会の偽物の輝きが、美織はいつまでたっても好きになれなかった。
けれどパンツスーツとパンプスに身を包んだ自分は、このビジネス街に馴染んで見えるのだろう。そう思うと、余計に虚しくなる。
ふと、川べりのコンクリートの階段を、杖をつきながら下りていく老人の姿が目に入った。
一輪の菊を携えて、川面へ向かっている。
ああ危ないな、と思った矢先、老人が階段を踏み外して尻もちをついた。
思わず小さく悲鳴を上げて駆け寄る。だが、美織が着くころには老人は自力で立ち上がっていた。
「おじいさん、大丈夫? 無理なさらないで」
「歳取るとあかんなあ。悪いんやけど、一緒に下まで降りてくれへんかな?」
愛嬌のある口調で頼む。
仕方ないな、と美織は内心、息を吐いて老人の腕をとって階段を降りた。
川面まで降りると、老人はしゃがみ、清らかに白い菊の花を一輪、土佐堀川に流した。
皺だらけの手を合わせて、川に向かって拝んでいる。しばらくそうしていたが、やがて顔を上げて美織に「おおきにありがとう」と微笑んだ。
「いえ。あの、立ち入ったことをお聞きしますが、ここで、ご家族かご友人を亡くされたんですか」
「家族は大丈夫でした。友人は、ひょっとしたら、いたかもしれんけど、もうわからへんな」
意味が飲み込めず、美織は眉をひそめた。
老人はひっそりと笑った。
「大阪大空襲です。あれから、七十年以上も経ったんやなあ。当時僕はまだ子どもで、逃げてる途中に、親とはぐれてもうたんや。途方にくれて、このあたりまで来ると、この川にね、火ダルマになった人たちが、次から次へと、飛び込んできたんや」
「ここで、そんなことが?」
美織は目を見開いた。
整備された、おだやかな土佐堀に、苛烈な過去を重ねて思い描こうとしたが、うまくいかない。
「可哀そうに、飛び込んだ人たちはもう、川から出てこれへんかった。ただ肉の焼ける悪臭が、どんどん僕の体のなかに入ってきた。そうすると『逃げなあかん! ここにいたら、死んでまう!』て、強う思ってね、ひとりで堺の親戚の家を目指したんや。でも、どこまで行っても、ずうっと焼け野原や。それでも、歩き続けた。涙と煤で顔中ぐちゃぐちゃになりながらね。杉本町あたりまで行ったら、そんな地獄みたいななかで、炊き出ししててな、こんな、ピンポン玉より小さいおにぎり、若い女の人から貰ろて、食べて、僕はようやっと堺までたどり着けた。親ともそこで会えた」
言葉を区切った老人は、美織の顔を見て、「おや?」と眉を上げた。
「よく見るとあんた、おにぎりをくれた女の人に、よう似てるわ。───ありがとうな。あのおにぎりが、僕を今日まで、生かしてくれた」
「そんな、私じゃありません」
「わかってるて。でも、ずうっと、お礼が言いたかったんや。あんたは、地獄で出会った吉祥天女さんやった。───ホレ、見てみい」
老人が川面を指す。
覗き込むと、柔らかな表情の吉祥天女が川面に写っている。
その上に、しずくが一つ落ちて、天女の羽衣のように波紋が広がった。