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YMSを終え、それからのおはなし。(1万字超)

現在の勤務地はこちら

気づいたら渡英から3年経っていたわけだが、いまだに私は海外で孤軍奮闘を重ねる日々を送っている。

ありがたいことに、私が海外企業に勤め続けたこの3年間について、noteにしたためてほしいと言ってくださった方がいたため、その方からいただいた質問にも回答しつつ、この3年間をゆるりと振り返っていこうと思う。
決して明るい内容ではないし、書いていくうちに他に伝えたいことがのべつまくなしに出てきた結果、家系ラーメンのように濃厚でやたら長くなってしまったが、読んでくれた誰かの印象に残ることを願うばかりである。(これでもほんの上澄みに過ぎないが…)
往々にして海外就職を果たした在外邦人は、明るく前向きで、一瞬一瞬が眩いばかりに輝き充実した日々を過ごしているという印象を持たれることも多々あるが、実際にはこんな在外邦人もいるんだなあと思いながら読んでいただければと。

充電10%から引き寄せた仕事

この記事で少し触れたが、私は持ち前の悪運の強さが功をなし、YMSで渡英後すぐに仕事にありつくことができた。

最初に仕事案内をされた時のことは記憶に鮮明に残っており、1階リビングでほぼ同時期に渡英したYMS仲間のフラットメイトと、キャドバリーのチョコビスケットをかじりながら談笑をしていたら、ふとフラットメイトが「なんか電話鳴ってない?」と言ってくれたのでいそいそと自室に戻ったところ、不在着信が来ていたことがすべての始まりであった。

これ食べながら談笑していた。なかなかクセになるよね。

すぐに再度電話が来たため、ああきっとNHSの自主隔離確認関係だろうなあと思いながら電話に出た。するとNHS職員にしてはとてもハイテンションな声が響き、少々その明るさにたじろぎながらも「自主隔離関係だからこそ敢えて明るい対応をするよう促してるのかなあ」などとどこまでもNHS職員であることを前提に話を聞いたところ、話の内容が仕事探し関係に変わり、そこでようやく彼女が私のCVを見つけて連絡してくれた仕事探しエージェントのスタッフであることが判明した。

リアルにこの人参の顔してたと思う

とても光栄でまたとないチャンスであることは言うまでもないが、電話口の説明だけだと、私の理解力からして勘違いが生じる可能性があるし、万一ブラック企業だったら今後の英国生活はロンドンの空と同様曇天模様である。
かくして疑い深い私は、太陽を擬人化したような彼女に「是非とも応募したいところではありますが、私の語学力が拙いせいであなたの説明を勘違いしてしまっている可能性もあるので、メールで詳細内容を送っていただくことはお願いできますか?」と伝え、快く対応してくれた彼女からの太陽の恵み、もとい求人説明メールで説明してもらった内容と私の認識に差異がなさそうなことを確認した上で、CVを添付して返信した。
不在着信を確認した時、既にスマホの充電は10%を切っていたが、電話のやり取りが終わるまで持ちこたえてくれたことも、こころなしかなんだか背中を押されたようでいちいち嬉しかった。どこまでも呑気で楽天家である。

こんな通勤路を拝む世界線も確かにあったはず

採用、そして待ち受けていた宵闇研修

自分の人生には一生縁がないであろう海外企業の採用が決まった時の喜びは計り知れないものではあったが、告白して終わる恋愛ドラマと違って、これはゴールではなくむしろスタートラインだよと興奮冷めやらぬ自分を落ち着かせた。

研修は終始こんな感じだった(精神状態が)

地に足がつかぬまま隔離先のフラットの滞在キャンセルと返金手続きをこなしつつ、ちゃっかりロンドン聖地巡礼もすませ、社宅へ引っ越した。
職場は実に多国籍で日本人が最も少ないため、当然入社後の研修は英語のみで進められる。この研修が本当に苦痛で、入社1週間で脳裏に退職が浮かび、解雇される夢を見て汗だくで飛び起きることもあった。研修担当者やメンバーはとても親切だった分、自分の実力不足さとふがいなさで息苦しくなったが、私と同時期に入社した日本人の同僚がいてくれたおかげで、どうにか早期退職は踏みとどまることができた。社宅で一緒に住んでいたブラジル人のフラットメイトの「この会社が解雇することはそうそうないよ」という言葉にも密かに支えられていた。

プチ隔離中に社宅から見た空。部屋が暗いのは気晴らしにホラー映画をぶっ続けで観てたから。

そんなある日、実践研修をすることになり、その際に一時的に配属された部署の上司が挨拶がてらショートミーティングを設けてくれたのだが、その際に正直に「研修についていけず、全然知識が定着していなくて不安しかない」と伝えたところ「あなたは研修の度に教わったことをいちいち脳内で翻訳した上で理解しなきゃいけないのだから、他の子達より時間がかかって当然なんだよ。だからそんな重く受け止めなくていいんだよ!」と夜明けの光のような言葉をくれ、宵闇をまとった1人の日本人の心をそっと照らしてくれた。

彼女の言葉により変わった研修風景

余談だが研修のために一時配属されたこの部署内において、自己紹介と「もし自分が夕食会を開いて有名人(生死は問わない)を3名招く機会があったら、誰を招きたいか」といった質問にメールで回答するよう促されたことがあり、イギリスに縁があり、認知度も高く、且つ私が本当に好きな有名人を選ばなきゃと研修よりも激しく悩んだ結果、「コリン・ファース、アルフレッド・ヒッチコック、クリストファー・ノーラン」と答え、それぞれを選んだ理由に関して言及した結果、研修してくれたトレーナーと夜明けの光をくれた上司(2人ともイギリス人)に「クリストファー・ノーランって誰?」と聞かれ、そんな質問が返ってくるとは予想してなかったため思わず言葉に詰まるという珍事件もあった。ノーランの認知度そんなに高くないのか…ちなみにこの質問を見て真っ先に思い浮かんだ人物は「アリ・アスター、リドリー・スコット、イーライ・ロス」であった。

宵闇研修を終えてもなおなかなか来ない夜明け

1月のイギリス。配属後もしばらくは毎日ここを歩いているような気分で仕事をしていた

紆余曲折を経て宵闇研修を終えたものの、それからの日々は夜明けを迎えたとは言い難いものであった。
仕事に対する理解度が絶望的に低いまま配属が決まり、そこで実践を重ねていくことになったが、上司は外国人のため、当然日々のやりとりはこれまでと同様、英語で行うこととなる。
案の定、研修で受けた内容が定着していないことを咎められたが、研修に一切ついていけていなかったことは事実なので、仕事に対する理解度を深めるために再度教わりつつ実践を重ねたいですと言い、日本人の先輩からのサポートの下で仕事をさせてもらった。今だから言えることだが、この頃はただただ「なんで私採用されたんだよ…どう見ても一番語学力も理解度も低いのになんでここにいるんだよ…クソの役にも立ってないじゃん」と日々自己嫌悪に苛まれていたが、自らこの環境下に飛び込んだ結果得た苦労は自分だけのもので、誰かと分かち合うべきでないと思っていたので、職場や人前では毎日が充実して楽しくて仕方ない風を取り繕っては、卑屈な本性をひた隠しにしていた。

他人の気がしなかった

手柄と言うには余りにも低次元

渡英してすぐに現地企業に採用が決まるという字面からはおよそ想像できないような、苦悩と暗中模索の日々を重ねていたある日。非常に厄介な仕事を誰かが片付けなければならないという状況となり、上司は一人の同僚にそれを頼んだものの、彼はそれを拒否。遠くの席でそっとその様子をうかがっていた私の耳に「じゃあポンコツにやらせるけど本当にそれでいいのか?」といった言葉が飛び込んできた。まさに寝耳に水である。

この出来事は、今にして思えばこんな感じだった。少なくとも私にとっては

心底嫌であった反面、こっちに振られる気がしたんだよなあ…とどこか他人事のように冷静に受け止めている自分もそこにいた。
結局私がその業務を請け負ったが、自分に任された以上、私以外の誰かが同じことをする羽目にならないようできる限りのことをした。幸運にもこの業務は私一人で片付けることに成功し、直属の上司はこの一件について高く評価をしてくれた。
思えばこのあたりがターニングポイントの一つだったと実感している。その後も同様に厄介な業務を頼まれ、その度に上司の思惑通りに処理ができたことが何度かあったため、徐々に上司の対応も豚の角煮のようにホロホロと軟化していった。
その後のある日、私がホリデー中であることに気づいた上司は、私と仲が良い彼女の部下に「ポンコツはどこに行ってるんだ?いつ帰ってくるんだ?もうこっちには帰ってきているのか?」と話題にしてくれていたらしく、ああ無茶ぶりに応えた分だけ好感を持ってくれてるんだなあとほくそ笑んだりもした。

ようやく日がさし歩きやすい道になった

YMSが終わっても終わらなかった海外就労

優雅さとは縁遠い状況下でしがみつき続けていたら、あっという間に勤務開始から1年以上が経過していた。
残念ながら、勤務先では就労ビザの提供はできないという返答が早い段階から上層部から聞かされており、これがきっかけで同部署を後にし新境地へと羽ばたいていった同僚も何名かいたくらいであった。

私には降りる勇気がなかった

同時に「これからはどう生きていきたいですか?私は愛する人と結婚し幸せな家庭を築くことが務めだと聞かされていたのですが…(意訳。本文は読んで腸が煮えくりかえりそうな胸糞の悪い内容だったため記憶から抹消した)」と、自分を責めるポーズを取りながらも、泣きながらこちらにむかってナイフを振り上げるようなヒステリック怪文書を日本から受け取り続け、すっかり嫌気がさしていたため、漠然と「夢だった英国一人旅も達成したし、もう残りの人生は消化試合だな。大人しく日本で身の丈に合った生活をして、しめやかに人生を終えよう」と、毎度おなじみ仄暗い厭世観に満ち溢れた後ろ向きの人生プランを、うすぼんやりと考えていた。

YMS終了の足音は徐々に近づいていった

YMS終了まで3カ月を切った頃、私の部署をまとめるマネージャーに呼び出され会議室へ向かうことになった。
直近で私がこなした業務に重大なミスがあったため、こうして忠告の場を設けてくれたのだとばかり思った私は、声をかけられた瞬間からリストラの恐怖に怯え勝手にちぢごまっていると、席についた瞬間、マネージャーは「今回この場を設けたのは、君の普段の業務に問題があったわけじゃないから、まずは安心してほしい。」と開口一番に笑顔で切り出してくれた。
この瞬間つい「やだもー脅かさないでくださいよぉーーー!!ビックリしたじゃないですかぁー!ドッキリカメラはここですかぁー!?」と柄にもなく安いリアクション芸人のようなコメントが口をついて飛び出そうになったが、つとめて平静を装いながら「I'm relieved to hear that」などとのたまっておいた。

これくらい呑気に構えていきたい

マネージャーによると、マルタに新しい部署を作る計画を立てているため、私にマルタへ行ってはくれないかという打診であった。
マネージャー曰く、イギリスでの就労ビザの提供は難しいが、マルタならビザ提供ができるのでこの話が持ち上がったこと、そして私の普段の勤務態度やパフォーマンス面においては何の問題もないから今回のオファーに至ったとのこと。つまり、忠告どころかまたとないチャンスの場を設けてくれたわけだ。自分には身に余る光栄であった。言うまでもなく是非行かせていただきますと迷わず即答した。

後ろ向きでも進むことにした

余白を残さない一時帰国の過ごし方

ありがたいことに、YMS終了後の進路もそっと与えてもらったが、ビザ申請から承認に至るまで数カ月を要するため、イギリスからマルタにストレートで行くことは不可能である。そのため一度日本に帰国し、人事とやり取りを重ねながら手続きを進め、返答が来るまでの間待機をするようにと指示が出された。
しかし、これまでのエピソードでうかがえるように、私はどこまでもネガティブで、常に最悪のシナリオを考えて動く癖がある。
この時真っ先に思いついた最悪のシナリオは「突然テロリストに襲撃される等何らかの理由でマルタの就労ビザが下りず、やむを得ずこの会社で働くことが出来なくなること」であったため、万一そのような事態に陥った際、すぐに日本での社会復帰に切り替えることができるよう、なるべく無職期間を設けない方が賢明だなと考えた。また、無事マルタでの就労が開始した後も、初任給が入るまでの生活費はなるべく多く用意しておくべきだと判断したことも日本での就職活動へ背中を後押しした。

見るホームシック誘発剤

かくして私は、事前にビザ獲得までにかかるおおよその日数を事前に確認しておき、帰国前に以前登録していた派遣サイトと数年ぶりの再会を果たし、登録情報を全て更新し、イギリスにいる間から幾つかのエージェントに事情を説明し、メールでやり取りを始めた。いつでも私を突き動かすのはこの救いようのないネガティブ思考なのである。

後ろ向きのエネルギーに引っ張られた早めの行動が功をなし、帰国後すぐに理想の条件で短期間の派遣雇用が決まった。相変わらずの強運である。
雇用期間はほんの数か月ではあったが、仕事内容は楽しく、正直正社員登用の打診が来たらちょっと考えてしまうかもなとすら思えた。また、上司や一緒に働いた方々は非常によくしてくれ、私のやや特殊な職務経歴に興味を持って話しかけてくれたり、雇用期間終了時に連絡先を交換し、今も密かに連絡を取って仲良くしてくれる友達もできたりした。

バレンタインにこんな差し入れをいただけるような職場でした

余談だがこの職場を紹介してくれた派遣会社のコーディネーターの方も私の経歴に関心を持ってくれ、イギリスの話で盛り上がったりもしたので、私がこれまで積み重ねた経験は、自分で思うよりも肯定的に受け止めてくれる方が多いのかなと、柄にもなく前向きなことを考えたりもした。
仕事以外の面でいうと、期限はまだ有効ではあったが、念の為パスポートを更新しておいたり、万一私が日本に無言の帰宅をするようなことになったことを考え、クレジットカード情報やWiseのパスワード等をまとめたもしもノートを作成し、開くことが一度も訪れないことを願いながら、家族にそっと託した。

一期一会を噛みしめ、いざ出国

思えば島国ばかりを渡り歩いている

派遣が満了した直後、ついに人事から「そろそろマルタにおいでぇ~」と招待を受けたため、すっかり満身創痍になりつつある相棒のスーツケースと、これまたくたびれた大きめのバッグパックを引っ張り出し、これまでの経験に基づいた荷造りをいそいそと始めた。
私は荷物の抜け漏れを恐れるあまり、荷造りを出発1週間前から始めるほどの心配性なのだが、今回も例に漏れず早め早めの準備をし、何度も見直しを繰り返した。たかが荷造りごときでこんなに試行錯誤を重ねる人間も珍しいだろうが、私にとってこの選択は、自分の人生がかかっていると言っても過言ではないのだ。
理想のパッキングを3日前に終えた私は、あまり眠れず寝不足状態の体を引きずり、漠然とした不安と、未開の地に対するほんの少しの好奇心をこっそり携えて、17時間超のフライトへ繰り出した。

心配性なので、この手の電光掲示板を見かける度に自分のフライトを確認した

マルタに到着した時は現地時間で夜の23時をとうに過ぎていたが、会社がタクシーを手配してくれていると聞いていたため、特に心配もせず入国審査を済ませ入国を果たした。
説明では、私の名前が書かれたサインを持った運転手が空港で待っていると聞かされていたため、でかでかと私の名前が書かれたスケッチブックを掲げた運転手が、空港で待ち構えているのかななんてついついドラマチックな想像をしたが、実際は空港に到着してから1時間以上待たされ、ようやく来た運転手は、スマホに書かれた私の名前をそっと私に見せただけであった。
まだ心に少し余裕があった私は、そりゃそんなラブアクチュアリーな展開はないよなあと呑気に構えていた。

初日からホームシック

夜のバレッタ

マルタに来て初めて知ったことの一つに、住所が住所として機能していないことが挙げられる。私は初日でそれを痛感することとなった。
会社から事前に行先(社宅)を告げられていたにも関わらず、なぜか運転手は社宅を見つけることができず、この辺だから!たぶんここだよ!と半ば投げやりな態度で私と荷物をほっぽり出し早々に去っていった。既に時刻は夜中の0時を過ぎており、さらに私のスマホは充電が10%近くほどしか残っておらず、その上Simカードは明日以降に購入予定だったため、もはや表札でしかなかった。
私は途方に暮れながらも、その場に日本人(人影すらまばらであった)がいないことを良い事に、思いつく限りの罵詈雑言を喚き散らしながら、あてもなく荷物を引きずり歩いた。もう既に日本に帰りたくて仕方が無かったが、いい大人がこんなことで泣くもんじゃないと、なけなしの自尊心で自分を奮い立たせた。

こんなにも帰ることばかり考え続ける日々は初めてだった

私を知る人間は1人もいないというこんな四面楚歌状態で、さながらオデッセイ気分を味わいながら歩いていると、そこに幾分のアルコールを嗜んだであろう青年が「どうしたの?大丈夫?」と声をかけてきた。そこで事情を説明したら「いいかい、まずはこのアプリをダウンロードしてタクシーを呼ぶんだ。僕のスマホを使ってテザリング機能を有効化するから、それでダウンロードしてタクシーを呼んでごらん。呼べた?そしたらタクシーが来るまで僕も一緒に待つよ。危ないからね。」と、見知らぬ東洋人に菩薩のような優しさで手を差し伸べてくれた。

マルタではあちこちで日本の中古車を見かける。残念ながら豆腐は買えず。

この名も知らぬ青年は到着までの間ひたすらに私を慰め、そして到着したタクシーに荷物を載せてくれた。本当に助かったし、彼にはいくら感謝をしてもしきれない。
この時呼んだタクシーで会社に向かって事情を説明し、再度タクシーを呼んでもらうも、やはり社宅を見つけることはできず、結局会社の守衛さんが助けに来てくれ、彼らの助けにより夜中の2時過ぎにようやく社宅へと転がり込めた。初日から自分の悪運に感謝すると同時にここまでくると怖いなと密かに戦慄もした。

しばしのアイアムレジェンド勤務

この窓はマルタのそこかしこで見かける

ビザ申請手続きを済ませ、待ちに待ったマルタでの勤務開始日。
当初私は他にも自分の同僚がいるのだろうとばかり思っていたが、なんとマルタで配属された部署では私しかおらず、オフィス全体を見まわしても日本人社員は私のみという完全にアイアムレジェンド状態でのスタートとなった。犬との勤務を許してもらいたいところであった。
そんな状態だからか、周囲の社員は非常に気にかけてくれ、お菓子やピザ、チキン等をたくさん差し入れしてくれた。むしろ私がわんこみたいだ。
肝心の仕事はイギリスにいる上司や同僚と共にこなすこととなり、顔が見えない同僚達に対し、文字でのやり取りだけでできる精一杯のフレンドリーアピールをしつつ、アイアムレジェンド勤務をこなした。

こんな二人三脚を歩みたいものだった

このアイアムレジェンド勤務は、8月に同僚達に合流するまで続いたため、この部署内で最初にマルタ勤務を始めた人間がソロ活動大好きな私で大正解だっただろうなと勝手な事を考えたりもした。
と、まあ、気づいたらこの時点で10,000字近く書き散らしてしまっているため、それからのことをざっとまとめると、

  • ビザ申請時、事前に時間厳守と聞かされていたため、こちらが時間厳守で来たにも関わらず、いい加減な対応をされ、結局たまたま近くに座っていたアジア人のお姉さんに助けてもらう

  • ビザ申請中、追加で書類を出すように言われるも、その書類は大使館に問い合わせても、おいそれとは発行できない書類だとけんもほろろな返信をもらい途方に暮れるも、結局その書類がなくてもビザが下りる

  • 社宅の滞在期間を勘違いしていたため、慌てて家探しを始めたが、家探し開始5日ほどで無事アパートに引っ越し、生まれて初めての海外一人暮らしを果たす

  • ところがその引っ越し先の大家がどうしようもなく無責任で、何度伝えても修繕をなかなかしてくれなかったり、修繕もいいかげんで中途半端なことばかりしてきたり、その癖自分の非を全く認めない人間だった

  • 立地はとても気に入っていたし、すぐに引っ越すとかえって損かなと思い我慢して住み続けていたが、ビザ更新時に大家が提供しなければならない書類の作成の際、あまりにも杜撰な対応をされ、ようやく重い腰を上げて引っ越しを決意し、殺意が決意になる前に引っ越す

といったことがあった。今だから言えるが、マルタに来てからの1年は、苦悩と困難の日々を送り、その結果これまでの海外生活において今まで1度もお世話になったことがないホームシックに苛まれ、日本に帰りたくて仕方がない日々を送っていた。
それでも今こうしてマルタ生活を続けられるのは、ここでしか会えない友達をはじめとした、多くの人々のサポートのお陰といっても過言ではない。初日に出会った名も知らぬほろ酔い好青年も含め、マルタでも本当にたくさんの厚意に助けられている。

うさぎ料理は思ったよりずっと食べやすい

すっかり長くなってしまったため、最後に友人からいただいた質問に回答していこうと思う。

海外で住んで、または働いて、印象的だったシーンをあげるとするなら何か?またそれは何故か?

住んでいて印象的に感じたことの一つとして、日本では即事故物件とみなされ、大〇てるのサイトに掲載されることが容易に想像できるような造りの住居がそこかしこに見受けられることが挙げられる。それは今まで長期滞在したどの国でもそう思えたから、日本は地震大国である分、卓越した建築技術が築き上げられたのだろうなと強く感じた。事実ニュージーランド時代に1度、震度3の地震に見舞われたことがあったが、その際にいたフラットは、体感震度でいうと震度5レベルに揺れたので、日本の耐震技術の高さを身をもって実感することとなった。ニュージーランドも同じ島国で地震大国ではあるが、そこはまあ…

NZ時代の通勤路。この風景が大好きだった

働いていて印象的に思ったシーンとしては、個人的な見解にはなるが、良くも悪くも責任感の強さは評価されないこと。
定時になればそれまでの業務を即シャットダウンし颯爽と帰れる、持て余しがちになるほどの有給をもらえる等といった美点ももちろんある。しかし、(私は比較的怠け者で無責任な方ではあるが)日本で働いていた頃と同等の責任感を持って仕事をすることで、こちらが理不尽に割を食ったり、真面目に働くことがバカバカしくなるような態度を取られることも多々あったので、ああ日本に根付いた責任感や誠実性といった美徳はここには一ミリもないから、だからこそ日本は真面目で誠実といった印象を持たれがちなんだろうなと子供の幼稚なわがままに付き合う親になった気分で納得することにした。

この壁画みたいなことを言う社員もチラホラ

外国人から教えてもらった(気づかせてもらった)、自分が認識していなかった自分の意外な価値を知った体験はあるか?

海外生活には関係のないことになるが、渡英前日本にいた頃、自分の語学力を損なわない程度には英語に触れておこうと思い、某言語交換アプリで日本語と英語で定期的に文章を投稿していたことがあった。
内容は自分が好きなイギリス文化と日本文化の比較とそれぞれが持つ個性や魅力といったものから、当時見た映画のレビュー等、その時自分が書きたいと思ったことを通退勤時の電車に揺られながら書き上げていたのだが、英語で文章を書くときには必ずイギリス英語フレーズ集から最低2,3フレーズを使うように意識しアウトプットをし続けた結果、いつも私の投稿を読んでくれていたアメリカ人の友達に「君の映画レビューはすごく面白いからここでも映画レビュー書いてくれ」と声をかけてもらえたことがあった。

好きでやってただけのことが少し報われた瞬間だった

日本語英語問わず元々文章を書くことは好きではあったが、自分が面白い文章を書けている実感はそこまでなく、ただただ自分のテンションがあがるままに書き殴っているだけなので、そのように肯定的に捉えてくれる人が海の向こうの国にいることは素直に嬉しかった。ましてやネイティブの方が私の拙い英語から面白さを見出してくれたことが、私のなけなしの自己肯定感を高めてくれた。

海外に出て変われたこと、変われなかったこと

NZに行くことを決断した時の心境はこんな感じだった

人目を気にして我慢していたこと、思い描くだけで満足していたことに臆することなく挑戦できるようになったこと。とはいえこれは外国だからこそできているのかなと感じる部分も多い。旅の恥は掻き捨てとはよくいったものだ。例えばファッションに関して言えば、色合いやデザインが若々しくても、自分が好きなデザインならいいよねと遠慮せず着るようになったし、ラフな格好も平気でするようになったが、これは日本では到底できそうにないなと思う。海外かぶれカジュアルおばさんの名をほしいままにしてしまうからね。

こういうワンピースは正直憧れる

変われなかったこと
→海外での生活を続けてくうちに、カスタマーサービスやインフラ等多くの面において、日本と同レベルの対応はどうあがいても望めないと諦め言い聞かせてはいるものの、それでもどこかで期待を捨てきれていないこと。
人が怒るのは期待しすぎた結果だと思っているので、無駄にエネルギーを消費し虚しい気持ちにならないためにも、自分にも他人にも期待しないように生きていこうとはしているが、それでもまだ自分のこれまでの小規模な人生において培ってきた常識はまだ捨てきれない故に、その常識に沿った形で頭をもたげる期待も捨てきれるわけがなく、未だにその二つは主張をやめてはくれないのだ。

質問してくれた友人と、ここまで読んでいただいた方に深く感謝申し上げます

ここまで読んでいただきありがとうございます。この記事が誰かの心に留まれば幸いです。

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