20代を振り返る(後編)

この記事は20代を振り返る(前編)の続きになります。
暇がありましたら前編もぜひお読みください。

25歳(2018年、修士2年~会社員1年目)
この年の3月に、修士課程を修了しました。名誉なことに、自分の書いた修論が評価されたのか、人間科学研究科賞に表彰されることとなり、まさに有終の美という形で学生生活を終えることができました。まあ正直、大学生活初期にあれだけ鬱屈としてたのが、こういった形で締めくくられることになろうとは夢にも思わなかったですね。本当に幸せな院生活でした。
4月からは今の職場に入社し、現在に至るまで働き続けています。まさかこれだけ長い期間働き続けることになろうとも思っていませんでしたが…
最初の配属先は、清掃事業の部署で、自分自身も現場に入ってビルの掃除を行いつつ、リーダーの一人として知的・発達障害のある社員を教育指導する、という仕事をすることになりました。結構掃除の仕事というとネガティブなイメージを持たれがちですが、黙々と作業に集中できる時間も長いためか、個人的には結構楽しかったですね。(毎朝6:50出勤のシフト制という、夜型人間の自分にとっては地獄のような勤務形態でしたが笑)
ただ、僕は、吃音からの「逃げ」によって、大学時代にいわゆる対人能力がそこまで必要とされないアルバイト(全国模試の採点、個人契約の家庭教師)しかやってこなかったため、仕事のイロハというものを何一つ理解していない状態からのスタートでした。この1年は最初の1年だったため、比較的上司(課長)からも大目には見られていたものの、空気の読めなさ等を度々指摘されたり、報連相がうまくできず、叱られることが多々ありました。(年齢の割にいろいろと遅れている、吃音による二次障害があるのではないか、と度々言われてきました。)その一方で、障害のあるメンバーとは、どこか共感できる部分があったのか、比較的良い関係を築けていたように思います。(ありがたいことに、今でも当時の部署のメンバーの中で僕の話が度々話題に上がったり、遊びに誘ってもらったりすることもあります。)この時に、「吃音とは別の理由で、健常者の人とうまくコミュニケーションが取れない」というのが、自分の悩みとして浮かび上がってきました。
プライベートにおいては、吃音自助会で知り合ったとある友人が僕の修論をいろんな人に広めてくれたおかげで、人間関係が少しだけ広がりました。その友人と一緒に「ユニバーサル哲学カフェ」(以下、ユニ哲)という会を開催したり、「ぼくらの非モテ研究会」という会に参加したり、また、吃音自助団体の世界大会で、修論の研究発表を行ったりと、今思えば一気に自分の世界が広がったのがこの時期でした。吃音の自助団体(おおさか結言友会、うぃーすた関西)にも毎月のように通い、今になって思えば結構イキった言動してたかもしれないなと思いつつも、どこか学生生活の時に経験できなかった青春を取り戻しているかのようで楽しく過ごしていました。
でも正直、この年は後半の記憶があまり残っていないんですよね…なんとなく、職場の50代の先輩指導者とあまり関係が良くなかったからか、日々の苦しみを忘れようと必死だったのかもしれません。仕事の苦しみをプライベートで発散するというルーティンがこの頃定着したように思います。

26歳(2019年、会社員1~2年目)
3月に吃音をテーマとしたユニ哲を開催したのが強く印象に残っています。今でも思い出すとどことなく幸せな気分になるくらい良い会でした。
この年の大きな出来事といえば、いわゆるパートナーができたことですかね。まさにユニ哲に参加してくれた人の一人ですが、人生で初めてのパートナーでした。これまでに片思いすることはあれども、いわゆる付き合うということをしてこなかったため、良くも悪くも最初は精神の安定感を乱しながらも付き合っていたような記憶があります。
でも、この時感じたのは、パートナーができると、ある意味、マジョリティの世界では「一人前」とみなされる側面があったのかな、ということでした。度々、「彼女とは最近どう?」みたいな質問をされることもあり、コミュニケーションの機会が増えたりしましたね。
でも自分にとってはパートナーができたことによって、さらに人間関係の範囲が広がりました。元々、恋愛に閉じたくないという考えは共にあったので、一人で行きにくいようなコミュニティに二人で顔を出したりするなど、お互いに支えあいながら世界を広げていくことができました。
一方仕事では、自分と同じ立場の後輩が入ってきました。その後輩は社会人基礎力が圧倒的に高く、みるみるうちに活躍していきました。僕はというと、基本的に仕事の呑み込みが遅いので、2年目になっても仕事のイロハを理解できていませんでした。というより、その後輩の姿を見て、「ああ、仕事ってこうやれば良いのか」と学び、遅ればせながらようやく基礎が身についたような形ですね。また、2年目になり、「新人」という言い訳が使えなくなり、課長からのあたりが段々ときつくなっていたのを感じました。いつまでたっても成長しない自分にイライラしているような感じでしたね。その後輩ともよく比較されました。当時の自分は「成長」というワードにどこか胡散臭さを感じていたため、内心、「あなたの望むような成長はしてやらない」みたいな小さな反抗心を抱えていました。あと、あんまりにもマジョリティ世界のしきたりのようなものが理解できないので、正直、この時くらいから、自分には発達障害があるのではないかという疑いが徐々に明確化してきたような記憶があります。課長との関係が悪化する一方、先に述べた50代の先輩指導者とは、幾多の現場作業をともに乗り越えたからか、ある種の「絆」ができたのか、次第に仲良くなっていきました笑 この時に、根気強く付き合っていれば、他人との関係も良くなっていくのかもしれない、ということを学びました。

27歳(2020年、会社員2~3年目)
この年からコロナ禍が始まりましたが、2020年はとにかく活動の年でしたね。ユニ哲は継続して行いつつ、新たに「名前のないつどい」という会を開きました。この会は、「名前がついていない、つけるのが難しい悩みを皆で共有して深め合う」というコンセプトのもと、4回開催しました。また、その他に自分なりの自助会を作りたいという思いから、「吃音を深める会」という会も2回ほど開催しました。それ以外にも、「きつねびより」という吃音者の体験談集に寄稿したり、友人が作っている吃音の動画に出演したり、オンラインで会を何回か開催したりと、何かと活動意欲に燃えていました。この時感じたのは、自分で会を運営したり、ファシリテーションをするのはかなり難しいことだ、ということでした。これを卒なくこなしている人たちって本当にすごいんだなあという、尊敬の気持ちも湧いてきました。
一方、仕事の場面では、前半は相変わらず、課長との関係が悪化していく一方でした。しかし、後半になって人事異動があり、例の「デキる後輩」が別の部署に異動し、その代わりに3年上の先輩が配属され、課長に代わって実質現場長となりました。その先輩がこれまで出会った人の中でもかなり優しい人で、よく話も聞いてくださったこともあり、安心して職場に通えるようになりました。その時から、3年目の慣れも相まって、自分の仕事がスムーズに進むようになり、次第に課長からも評価されるようになり、ここにきてまさかの関係改善が実現するという奇跡が起こりました。(今でも会えば優しく声掛けをしてくれるようになっています笑)やっぱり安心感って重要ですよね。世の中厳しければ厳しいほど成長するとか言われたりしますが、僕みたいに厳しければ厳しいほどパフォーマンスに支障が出る人間もいるわけであって、むしろ安心感が成長につながるケースも多いのではないかと思います。
また、コロナ禍は正直、対人関係が苦手な自分にとっては幸運だったと思えるくらい、過ごしやすくなるきっかけとなりました。無理に距離を詰めない、今くらいの社会が、自分にとってはちょうどいいと思っていて、コロナ禍が終わっても、適度にこの感じは続いてほしいと思っています。強制される人間関係ではなく、自然に出来上がる人間関係をこれからも大事にしたいですね。

28歳(2021年、会社員3~4年目)
この年の一番大きな出来事は、職場で異動があったことですかね。前半は相変わらず清掃の部署で、それなりにいい感じで仕事ができていました。(ちゃっかり、ビルクリーニング技能士2級という資格も取得しました笑)3月に優しかった例の先輩が退職され、その部署の取りまとめ役を自分が行うことも増えてきました。そんな中、6月からシステム課に異動することが決まりました。最後の2か月はコロナによる分散勤務により、自分一人でメンバーをまとめていましたが、最後まで大きな問題も起こさずやり遂げることができ、達成感がありました。
6月以降から配属されたシステム課というのは、いわゆるIT部門で、社員のPCを設定・管理したり、情報セキュリティの施策を練ったり、社員にIT教育を行ったりする、いわゆる間接部門の部署です。今まで6:50出勤のシフト制だったのが、9:00出勤の完全週休二日制に変化し、生活スタイルが大きく変わりました。傍から見たら、この上ないくらいの栄転だとは思うのですが、当時の僕のメンタリティは完全にマイノリティ一色だったので、いわゆる健常者の世界である間接部門はなかなか適応しがたいものでした。心の支えとなっていた、障害者メンバーとのかかわりがなくなり、黙々と作業ができる時間もなくなり、休みも完全に固定され、おまけに障害者の人と好き好んで行っていた「幼いコミュニケーション」ができなくなるといった環境の変化は、自分にとって大きなダメージとなりました。また、上司である課長が、いわゆる「意識高い系」をそのまま人の形にしたような人であり、関係は悪くなかったものの、求められる役割についていけず、元々仕事の呑み込みが遅いこともあって、自信を失っていき、8月頃から体調を崩しはじめました。単に仕事が原因だけでなく、勤務形態の変化により、プライベートのリズムをうまく作れなかったことも原因の一つとしてあったと思います。以前ほど活動がしにくくなったようにも思います。精神科に通うようになり、服薬で一時は調子が良くなったものの、10月の後半から11月末まで休職することになりました。
正直、休職期間は気楽でした。今になって思えばもう少し休んでも良かったかもしれないと思っています。この期間、身動きが取れない日もあったものの、これまでできた友人と一緒に遊んだ日もあったりして、心が癒されることもありました。ただ、この時感じていたのは、自分の限界であったり、将来への不安でした。ここにきて、他者への共感能力の薄さであったり、思考の柔軟性のなさ、他人からの承認がないと決断できないこと、関心の偏りなど、発達障害的な特性について考えるようになり、「この先自分は本当に生きていけるのか?」という将来への不安でいっぱいになりました。

29歳(2022年、会社員4~5年目)
不調を引きずったまま迎えた29歳。前半は相変わらず不調のままでした。自分の身の回りで人間関係の不和があったこと、その他にもいろんな要因で不調を引きずっていました。このような状況下で、当時3人だったシステム課が、実質課長との2人きりの体制になるという変化があり、仕事の内容が大きく変容しました。ただ、実はこれに関しては、いい方向に働いた側面もありました。それ以前は課長のもとで、自分ともう一人がシステム課に所属しており、そのもう一人が実務を担い、自分は企画的な役割を担っていたのですが、体制変更により、自分が実務と企画の両方を担うことになりました。発達障害の傾向がある自分としては、自分の発想で物事を進めていく企画よりも、決まっていることを淡々とこなす実務の方が圧倒的に向いているので、実務に集中することで企画色の強い仕事から少しだけ距離を置ける今の体制の方が正直楽だったりします。そんなこんなで、実務的な仕事に集中しつつ、企画はさりげなく課長に投げて指示を待ち、ポイントポイントで成果を上げることで、徐々に課長からの評価が上がってきました。10月には会社の情報セキュリティ規程を一人で作って施行したり、200名近くの他社社員の前で自社のデータ活用戦略を説明する、みたいな芸当もできるようになり、このあたりからようやく自信がついてきました。最近は長年続いていた、職場への恐怖心もだいぶ薄れてきており、ここにきて本当の意味で職場定着ができたような気がします。
一方、自分の発達障害の疑いに決着をつけるために、障害者手帳を取得しました。実は吃音単体でも手帳を取れるのですが、この際、自分のことを知りたいと思い、検査を受け、診断をもらいました。これにより、主たる障害が「自閉症スペクトラム症(ASD)」という、自分でもあまり実感がわかないような感じになりましたが、なんだか安心感がありました。(ちなみに言語能力は非常に高いが、処理速度が遅く、状況理解力や想像力に欠けるというのが自分の特性のようです。)
プライベートでは、最近は思うように活動ができていませんが、ちょっと落ち着き始めているような感じですかね。以前ほど熱意がなくなったようにも思います。これは職場で認められるようになって、ある程度自己効力感がついてきたからかもしれません。また、以前ほど人間関係の構築に貪欲ではなくなってきているということもあるような気がします。なんだか、ちょっと人付き合いに疲れてきているような気がしないでもないです…
ちなみに、最近パートナーとも交際関係を解消しました。仲が悪くなったのではなく、お互い独立してもっと自分の世界を広げていきたいという考えが一致したためです。相変わらずよく会っていますし、これからも親友として付き合っていくつもりです。まあこれもどちらかといえば、新しい試みの一つ、くらいで考えています。

そんな形で、どことなくダウナー寄りの感じで迎えた30歳。これからどうしていくかは全く考えておらず、淡々と日々を過ごしています。一つ言えるのは、そろそろ新しい段階に向かう時が来ている、ということですかね。
それは新たな人間関係を作ることかもしれないし、新たな活動をすることかもしれないし、根本から生活を変えることなのかもしれません。
いずれにしても、良い意味で年齢を気にせず、これからも生きていきたいと思います。


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