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翻訳記事:ソ連から見たスヴォーロフ

過去のある時点から見た、過去のもう一方の地点というのはある種、興味深いテーマだ。

現代から見れば、共に過ぎ去った過去であるが、彼らの間では時に憧れであったり、時に否定すべき過去であったりし、それらの相互関係というのは、特に大きな複雑性を持ち得た。しかし、実際これらの言及を見つけることができるのは、稀でしか無い。多くの場合、人は今と未来にのみ関心を持ち、過去については、その過去が言及すべきほど偉大なる過去でなければ言葉を費やすに値しないと、直ぐに著のページを進めてしまう。

逆に、過去にも過去へ、多くの言及があるとすれば、それは、その者の偉大さを物語っている。例えば、アレクサンドロス大王、あるいは各中世近世国家のローマ帝国などである。これらは、それらの功罪が良き悪きはともかく、偉大であることは間違いがないものである。

今回の主題となる人物も、そのように偉大なる人物である。アレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・スヴォーロフ(Алекса́ндр Васи́льевич Суво́ров)、ロシア帝国最後の大元帥であり、生涯無敗の将軍である。

これを描くはソビエト連邦のゲオルギー・ニコラエヴィッチ・カラエフ少将(Георгий Николаевич Караев)である。

本文に入る前に、カラエフ少将の略歴を少し紹介したい。

1891年にゲオルギー・ニコラエヴィッチ・カラエフはコーカサスのある特殊な家系に生まれた。彼の父は徴集兵としてセルビア・トルコ戦争、ロシア・トルコ戦争に任官し、17の勲章を得る活躍をした英雄であり、父の影響を受けたカラエフは非貴族家庭としては多少珍しいことに、士官の道を目指した。

無事士官学校を卒業するや否や、第一次世界大戦が勃発し、カラエフはポーランド戦線の連隊に中隊長として配属される。彼は、一次世界大戦を通じ、ポーランド戦線で過ごし、戦争初期の川を巡る攻防戦や、ワルシャワ近傍からの撤退、ミンスク防衛戦などに参加した。ここは、第一次世界大戦中最も凄惨な戦場の一つであったのにも関わらず、カラエフは無事生き延びることに成功した。

1918年にロシア革命により内戦が勃発すると彼は彼の人生で最も重要な決断を行う。彼は、赤軍に志願したのだ。彼は初めは大隊長として赤軍に参加したが、徐々に頭角を現し、連隊長、そして最終的には准将階級にて軍の作戦参謀にまで上り詰める。彼は東部戦線でのコルチャック軍の打倒やトロツキーの麾下としてペトログラード防衛に参加した。

特記すべきことに、彼は内戦終了後も頑なに共産党への入党を拒絶し、軍のみでのキャリアを追求し、ソ連軍事アカデミーでの高等士官教育を受けた。そのような怪しげな行動にもかかわらず、彼は戦間期の粛清を免れることに成功した。第二次世界大戦中は、名こそ変わったが、内戦中に慣れ親しんだ土地であるレニングラードの防衛に参加し、防衛網の構築・要塞化を担当する傍ら、新兵の教育に励んだ。

戦争が終り、45年の軍歴の後退官すると、彼は自身の興味である軍事史の追求に励み、本翻訳元文のような記事を書いたり

おそらく、彼の軍事史上の最も有名な業績は、初期ロシア史にてチュートン騎士団による東方植民を食い止めた重要な戦いとされる『氷上の戦い』(Wikipedia En: https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_on_the_Ice)の位置同定のための考古学調査である。八年間にも及ぶ考古学調査の結果、彼は幾つかの考古学的発見と、場所の同定に成功したと発表した。(ただし、この発見は現代では別位置であるという意見が支配的である)

カラエフの業績は、スヴォーロフ自身の軍歴に比べれば見劣りするものがあるものの、二つの大戦の最も凄惨な戦線、ならびにロシア内戦を生き延びたというだけでも、非常に価値があり、また、スヴォーロフの影響下にある帝政ロシアの軍事教育、ならびにソ連の軍事教育を受けたことがあるという意味でも、これらの比較を行うのに適任の人物である。

『現代ソビエト軍事科学の視点により見たスヴォーロフの「勝利の科学」』

ゲオルギー・ニコラエヴィッチ・カラエフ少将

・1・

『勝利の科学』と呼ばれる軍隊の教育・訓練に関する素晴らしい教練を著したロシアの偉大な指揮官アレクサンドル・ワシリーヴィチ・スヴォーロフが鼓動を止めてから、150年が経過した。

この教練は、スヴォーロフが自身の巨大な軍事的才能を生き生きと表現したもので、ロシアの戦争芸術に貢献する最も貴重な著作の一つである。スヴォーロフの『勝利の科学』は、プロイセン軍学とその無能な信奉者たちの悪辣な論説に決定的な打撃を与え、ロシア軍事思想の高度で深い進歩的な性格を示した。

『勝利の科学』の射程は、スヴォーロフが生きた時代をはるかに超えている。その内容の多くは、今日に至るまでその意味を失ってはいない。

1918年、白軍と外国の介入による我が国への武力攻撃へ対抗するため、レーニンとスターリンが若い社会主義国家の軍隊である赤軍陸軍と赤軍海軍を創設したとき、全ロシア中央執行委員会軍事部は赤軍教練を発行したが、その中にはスヴォーロフの『勝利の科学』の内容が数多く含まれていた。

そこでは『勝利の科学』という同じ見出しでスヴォーロフの格言が、10のスローガンという形で与えられた。

1.兵士は健康で、勇敢で、動揺せず、正直でなければならない。
2.兵士は皆、自分の作戦を理解しなければならない。
3.厳しく訓練せよ。厳しく訓練すれば、作戦は簡単である。簡単な訓練は困難な実戦をもたらす。
4.多く撃つな、正確に撃て。より確実さが必要ならば、銃剣で。
5.鹿が通れるところは、必ず兵士が通れる。
6.共和国の市民を怒らせてはならない。兵士は強盗ではない。
7.武術の秘訣は三つある。第一は目、第二は速さ、第三は攻撃である。
8.学習は光、無知は闇。『匠は技に勝る。』(дело мастера боится、ロシア語の格言。優れた職人は何をやらせても上手くできるの意)
9.服従、学習、規律、清潔、健康、整頓、明るさ、大胆さ、勇敢さ、つまり勝利。
10.「わからない」と答える兵士は無価値である。「わからない」は呪われた言葉である。

赤軍教練、1918年

兵士の育成と訓練に関する規則のスローガンは、社会主義国家の軍隊であるわがソ連軍の特殊性に起因するいくつかの編集上の変更こそあったものの、A.V.スヴォーロフの文章をほぼそのままに出版された。

内戦中に世界で最初の社会主義国家の軍隊を創設したレーニンとスターリンにより、新しい時代の科学としてのソビエト軍事科学の基礎を築かれた。彼らは、過去の指揮官より得られた教訓の最善のものらを集め、それらを開発し、発展させ、戦闘術、作戦術など、戦争全般を行う新しい形式と方法とともに、ソビエト軍事科学に内包した。

大祖国戦争の時代、ナチスの軍隊が我々の古都、モスクワに押し寄せたとき、偉大なスターリンは、赤軍兵士に祖国を守るよう呼びかけた。このとき、同志スターリンはA.V.スヴォーロフの名前にも言及し、こう言った。

「偉大な解放の使命があなた方に降りかかった!この使命にふさわしくあれ!諸君らが行っている戦争は、解放の戦争であり、正義の戦争である。我々の偉大な祖先、アレクサンドル・ネフスキー、ディミトリ・ドンスコイ、クズマ・ミーニン、ディミトリ・ポジャルスキー、アレクサンドル・スヴォーロフ、ミハイル・クトゥゾフの勇姿が、この戦争で君たちを鼓舞する!偉大なるレーニンの勝利の旗が、あなた方を覆い尽くさん!」。

スターリン、1941年11月7日、赤軍兵士への演説にて

偉大な指導者のこの言葉に、全ソビエト国民が抱くアレクサンドル・ワシリエヴィチ・スヴォーロフの勇気ある姿と祝福された栄光に対する深い敬意が、美しい表現として見出された。

スヴォーロフの記憶が重要視される顕著な証拠は、1942年6月29日のソ連政府によるスヴォーロフ勲章の制定に関する法令に見出さられる。スヴォーロフ勲章の法令では、ソ連軍の将官や将校のうち、少ない兵力で、数的に優勢な敵の撃破を達成した者、数的に優勢な敵軍の包囲を巧みに回避する作戦を行い、完全に撃破した者、巧みに隠密裏に行われた作戦によって、敵の撃破を達成し、敵の防御を突破してそれを展開し、その結果敵を撃破し破壊した者を表彰するものと定められた。大祖国戦争中、スヴォーロフ勲章は、何千人ものわがソビエト軍の将兵と将校の胸に飾られ、その活躍は、彼らの武勲と美しいソビエト祖国への献身を証明した。

スヴォーロフの教育の原則を守り、我が軍の兵士を訓練することを目的としたソ連政府の施策の中には、スヴォーロフ軍学校という名称を与えられた軍中等教育機関の制度も含まれている。

また、ご存知のように、A.V.スヴォーロフは祖国の熱烈な愛国者であった。

「全ての善人は名声を得るべきである。」と、A.I.ビビコフへの手紙にてA.V.スヴォーロフは述べた。「私個人の名声は祖国の栄光の中にあた。彼の幸福は私の成功の唯一の目的でした。」

レニングラードのスヴォーロフ博物館、スヴォーロフが亡くなったアパートメントの博物館、彼の墓。イズマイル、トゥルチン、コブリン、コンチャンスコエなど、その他の彼の輝かしい軍事活動に関連する場所の多くの地方博物館の修復、レニングラード、ノバヤラドーガ、スヴォーロフ村、イズマイル、コンチャンスコエなどでの偉大なロシアの司令官のモニュメントの設立などは、ソ連国民のアレクサンドル・ワシリエヴィチ・スヴォーロフの記憶に対する深い敬意の表れであり、彼の生涯にて成し遂げた業績は祖国への奉仕の高い手本となるものである。

・2・

過去の将軍や軍事理論家たちは、戦争現象の根底にあるパターンを見出そうと何度も試みた。しかし、これらの試みは、いずれも失敗に終わった。社会発展の法則を理解せず、理想主義的なアプローチによって現象の外的な表れを内的な本質とみなした軍事理論家たちでは、その根底にある原動力と、そこに内在する弁証法的な発展や相互接続を明らかにできなかったのだ。

このため、西欧の多くの軍事関係者は、戦争現象の展開に規則性がある可能性を一般に否定した。例えば、スヴォーロフと同時代のナポレオンは、戦争は偶然が支配しており、敵対行為の経過と結果を左右するのは自分自身であると主張したわけである。「戦争では偶然が支配する」と言ったのである。同様に、「戦争は不確実性の領域であり、戦争は偶然の領域である」と説いたのは、ドイツが他国に戦争をばら撒いている時代のドイツの軍事理論家、クラウゼヴィッツであった。

百年後、帝国主義の元で、西ヨーロッパのブルジョア軍事思想は、このような主張を放棄しなかったばかりか、さらに踏み込んだことをし始めた。前述の前提に基づき、1914年から18年の第一次世界大戦のフランス軍総司令官であったジョフレ将軍は、軍事思想の疑似科学的発展方法にて、機械化時代の戦争においてなお、司令官の決定は、「直感」、すなわち、個人的偏見によって行うべきであると表した。

ピュイスグール(Puységur、https://fr.wikipedia.org/wiki/Jacques_Fran%C3%A7ois_de_Chastenet_de_Puys%C3%A9gur  だそうです。教えていただいた、旗代さん:https://note.com/hatashirorz/  に感謝!)、ロイド、ウィリセン、リーアなどのブルジョア軍事思想の他の代表者は、もう一方の極端な方向に進んだ。彼らは、時代によって軍隊が活動しなければならない状況が多様であるにもかかわらず、「この多様性とともに、すべての時代とすべての民族のための戦争の一定の不変の法則と規則が存在する」と主張した。

ロシアにおけるこうした反科学的な見解の支持者であった皇帝派のリーア将軍は、長年にわたりロシア参謀本部アカデミーを率いた。外国の「権威」の前に従順であった彼は、フランスの軍事作家ジョミニに倣って、軍事技術の発展における最後の発展はナポレオンによって確立され、彼により永遠かつ不変の戦争法則を確立されたと主張していた。このような悪質な態度に従って、リーアとその支持者たちは、19世紀だけでなく、20世紀の初めにも、ナポレオン時代の戦術と戦略の規定を適用しようとした。

リーアの仲間の一人である軍事史家ミフネビッチはこう書く。「…歴史上における、全ての時代の兵法原理の基本的な概念は同じで、それは様々な条件によって適用の次元にて変化するだけである。2000年前にエパミノンダスが確立し、アレキサンダー大王がその壮大さをもって適用した勝利の原則は、新しい民族国家の時代の戦場で初めて、その全体として実行された。ナポレオンの戦術は、古代世界の偉大な征服者であるアレキサンダーの戦術に最も近いものである。」

ミフネビッチは、軍事芸術史の研究をナポレオンの軍事活動の考察で終えたのは偶然ではなく、それ以降、この分野では新しいことはできないと考えたからである。戦争の機械時代の入り口にいた彼は、ナポレオンが行動した時代の戦争の形式と方法が、取り返しのつかないほど時代遅れになっていることに気づかなかったのである。戦争の現象に対するこのようなアプローチの疑似科学的性質は、過去の軍事指導者や理論家たちが、これらの現象に対する理想主義的、形而上学的な理解に目を奪われて、戦争の問題を軍事的問題だけに限定して、すなわち、国の経済力や道徳力から切り離して解決すべきだと主張するのが常だったという事実によって悪化させられた。このようにして、彼らは軍事科学が考慮する問題の範囲を狭め、その結果、ブルジョア軍事科学の範囲と戦争芸術の範囲とが等号化されることになった。

軍事科学の概念を定義した、『軍事百科事典』は次のように指摘した。「人間の創造性の各領域は、無意識の芸術の段階を経て、最後には十分に立証されたネットワーク(原則、規則、形式、規範など)を持つ合理的な芸術に行き着く。軍事の偉大な巨匠たちはこのように戦争を見ており、彼らの言葉や残された創造性のサンプルの中に、戦争術の合理的な理論を構築するための材料を見つけることができる。この理論の探求は、最高の軍事科学である戦略または指揮の科学の課題である」。

この軍事科学の定義からわかることは、まず第一に、軍事科学は、戦争の実際の本質を理解する唯一の真の科学的理解を提供する社会発展の法則の研究ではなく、過去の軍事指導者の経験的にとらえた「モデル、創造性」に基づいているということである。さらに、この定義の著者は、「高等軍事科学の課題」を戦略に還元しているが、この問題は、周知のように、戦術や作戦術とともに軍事技術の一部であり、決して軍事科学の内容を網羅しているわけではない。

軍事技術の発展に影響を与える他の要因とともに、戦争の現象を理解するための科学的基礎の欠如が、18世紀の貴族・農奴国家の軍隊の戦術と戦略に影響を与えずにはいられなかったことは言うまでもない。

西ヨーロッパの軍隊は煩雑な組織であり、戦術的・射撃的性能に劣る不完全な武器を持ち、雇い止め制度に基づいて募集された結果、部隊は低い士気によって区別され、後方地域は法外に広く、組織も不十分で、部隊から野戦築城の自由を奪っていた。このような状況の中で、いわゆるコルドン作戦が広まった。これは主に、陸軍司令官たちが、広範な野外作戦や決定的な目標を持つ戦闘を避けようとした結果、発展したものである。上記のような作戦の代わりに、国境沿いに要塞を築き、そこに大量の食料をあらかじめ集中させておくという方法がとられた。その一方で、このような要塞群の軍事的意義は過大評価された。防御的な傾向が攻撃的なものを支配し始めたのである。敵の通信手段への影響は、決定的な戦闘よりも優先された。戦術の分野では、定型的な戦術が支配的であった。戦闘が行われるとき、部隊は直線的な戦闘隊形を使用し、戦場での機動的な行動の可能性を排除していた。砲撃とそれに続く歩兵の正面からの攻撃が、直線的な戦術の基礎となった。

戦争と戦闘の形態と方法に関するこうした悪意ある見解の先頭に立ったのがプロイセンの軍事学校であった。プロイセン軍学は、プロイセン王フリードリッヒ二世のもとで最大の発展を遂げ、いわゆる斜行戦術を導入した。これは直線的な戦術の退化の最終段階を意味した。結果、周知のように、プロイセンとその軍隊を1759年のクネルスドルフ付近での敗北と1760年のベルリンへのロシア軍の進駐に導き、その後1806年のイエナとアウエルシュテット付近での恥ずべき二重敗北に至らせた。

このようなものが、18世紀後半の軍事の理論と実践の問題において、軍事指導者や理論家の間で支配的だった主な流れや見解である。彼らの悪意ある、本質的には理想主義的な立場は、A.V.スヴォーロフの時代には、ヨーロッパを支配していた絶対主義、あるいは封建的な社会・国家体制、貴族・農奴王国の支配階級の反動的思想と政策が、資本主義の生活様式に置き換えられつつあることによって決定されていた。

このような状況下で活動を進めたスヴォーロフの活動は、兵法上のある疑問に科学的な正当性を与えるという発想からは程遠いものであった。当時の他の軍人たちと同様、戦争の法則を理解するための科学的な研究方法を習得していなかったのである。しかし、その鋭い頭脳と観察力のおかげで、彼は偉大な個人的経験に基づいて、これらの法則のいくつかの要素を自分の実践活動の中で発見することができ、それに基づき、彼は彼が『勝利の科学』に要約した多くの進歩的な軍事理論的規定を表現することができた。

ピョートル1世、ルミャンツェフ、その他多くのロシアを代表する軍事指導者たちがロシア軍に築いた伝統に従い、これらの伝統を深化、発展させたスヴォーロフは軍隊の教育と訓練を並外れた高みにまで高めた。当時、プロイセンの戦闘訓練システムは、絶望的な訓練、機械的な行動、そして残酷な体罰に基づいており、兵士を「条件に応じて反応する単純な機械」に変えることを目的としていたが、スヴォーロフは機械的な軍隊訓練に反対し、「すべての兵士は自分の作戦を理解しなければならない」という当時としては前例のないしかし深く進歩した要求を打ち出した。

スヴォーロフ自身、自分の軍隊の戦闘訓練方式がプロイセンに比べて決定的に優れていることを完璧に見抜いていた。「ロシア人は常にプロイセン人に勝ってきた」と彼は何度も繰り返した。「粉は火薬ではない、ブークレーは大砲ではない、鎌は肉切り包丁ではない、私はプロイセン人ではなく、生粋のロシア人だ」とスヴォーロフは言い、プロイセンの不快な訓練が戦時には相応しくないことを鋭く強調した。それどころか、スヴォーロフの場合、訓練は全ては行軍する兵士の生活を楽にし、同時に高い戦闘能力を身につけさせることを目的としていた。祖国愛、尊厳、勇気の精神で兵士を育てることで、スヴォーロフの指揮する部隊には高い道徳性が与えられ、高度な戦闘技術の訓練と相まって、当時の他の軍隊では明らかに実現不可能と考えられていた戦闘任務を遂行することができるようになった。

スヴォーロフの軍事教育・訓練システムの強みは、その中心的な位置を兵士が占めていたこと、つまり、戦況が要求しうる全ての訓練を受けた人間が存在ことにある。西ヨーロッパ、とりわけプロイセン軍で広く採用されていた、軍隊の訓練におけるパレードの歩様やドリル、軍事技術における偶然や奇襲などの偶発的瞬間の重要性を説く代わりに、A.V.スヴォーロフはその戦闘訓練システムによって、軍隊の士気、質、可能であれば師団の数、指揮官の戦闘資質といった戦闘や戦争全体における決定的な結果を、兵士の問題へと集約し、その根幹となる兵士を強化・発展させた。これらのことは、18世紀のみならず19世紀の軍事作品の中でも傑出した位置を占めるスヴォーロフの『勝利の科学』に生き生きと表現されている。

スヴォーロフは、その軍事活動において、これらの要素を必要十分に確保する機会が必ずしもなかったという事実にもかかわらず、彼が残した指揮と軍事理論の輝かしい業績は、ロシアと世界の軍事芸術に顕著な貢献をした。これあらには、ランコロナとストロヴィチ(1769)、トゥルトゥカイとギルソフ(1773)、キンバーン(1787)、フォクサーニとリミク(1789)付近での輝かしい勝利、伝説のイズマイル襲撃(1790)、モローのフランス軍の撃破がある、。また、北イタリアでのマクドナルドとジュベールとの戦闘、それに続く英雄的なアルプス越えは、エンゲルスが指摘したように、「この老兵(すなわちスヴォーロフ)が好んで比喩した表現のように、ロシアの銃剣はアルプスを突破したのだ。」これは、スヴォーロフの世界的名声を生み出し、ロシアの軍隊に衰えぬ栄光を与えた。アレクサンドル・ワシリーエヴィチ・スヴォーロフは、18世紀後半にロシアの軍事技術が西欧から独立した道を歩んだだけでなく、西ヨーロッパ諸国の軍隊と比較して、その先進性と決定的な優位性を持っていたことをその中で実証した。

ロシアと世界の軍事芸術の発展における最大の功績にもかかわらず、スヴォーロフとその軍隊の教育・訓練システムは、ロシア国内でも国外でも適切な評価を受けることはなかった。スヴォーロフは、同時代の人たちよりも頭一つ分、背が高いため、(訳注:比喩表現。スヴォーロフ自身が比較的背が低く(150cm程)で、頭一つ背が低いとされたことに対比し、おそらく知見が頭一つ分抜けていたと言いたいのであろう。)自身との対話でも十分に多様な意見を呼び起こすことができたが、孤独であった。スヴォーロフ自身、このことをよく理解していた。彼自身が言っているように、「褒められ、愛され、驚かれ、叱られ、笑われ、しかし理解されなかった」のだ。これは、スヴォーロフの進歩的な見解が、彼の軍隊の教育と訓練のシステム全体と同様に、ロシア独裁国家や西ヨーロッパの最大国家の軍事システムの反動的本質と激しく矛盾していたために起こったことである。

さらに、帝政ロシアでは、これは、不相応に膨れ上がった偽りの外国の権威に対する支配層の不相応な賞賛を鮮明に表現するものであった。過去の軍事指導者の中で、フランス王アンリ四世、スウェーデン王グスタフ=アドルフ、フランス王ルイ十四世、ヴォーバン元帥、オレンジ公、サヴォイ公オイゲン、プロイセン王フリードリック二世、ナポレオン、軍事科学の創始者としてジョミニ、クラウゼヴィッツ、ブロー、リョーストフといった偽りの権威の名前が強く推奨されたのに、A.V.スヴォーロフの名前は陰に隠れていてその遺産は正しく研究されていなかった。

十月社会主義大革命の後でのみ初めて、A.V.スヴォーロフの軍事活動を真に科学的に研究する十分な機会が与えられ、ロシアと世界の軍事技術の発展の歴史において彼が当然占めるべき卓越した地位を彼に返すことができるようになったのである。

・3・

スヴォーロフの死後、『勝利の科学』と呼ばれるようになったこの教本は、いつ頃書かれたものなのか、それを明らかにする資料は今のところ見つかっていない。唯一分かっているのは、1763年から1768年にかけてノヴァヤ・ラドガでスズダル連隊の指揮を執ったときから、1796年にトゥルチンスク収容所で軍隊の教育・訓練に関する公式ガイドとして導入されるまでの間に、彼が長年の経験に基づいて作成したことだけである。このように、18世紀後半のロシア軍事芸術の記念碑は、偉大な指揮官の30年以上の経験に基づいている。

A.V.スヴォーロフは、1764年から65年の冬にかけて、『連隊制度』(Полковое учреждение)として知られる教練本を書き、部隊の教育と訓練に関する自分の考えを初めて表現した。

これは、1756年から1763年にかけての七年戦争から帰還したスヴォーロフが、帰国後すぐにまとめたもので、この時期のスヴォーロフの考え方だけでなく、当時のロシア軍の状況も明らかにする重要な文書である。この中で、スヴォーロフが初めて戦闘に参加した際の経験がまとめられている。その中で彼は、ロシアの兵法が先進的であり、フリードリッヒ2世が誇ったプロイセン流よりも優れていることを証明するような見解を示している。

七年戦争でプロイセン軍との戦闘やドイツの首都占領に数多く参加したスヴォーロフは、ベルリン(1760年)から帰国した。彼は、その活発な頭脳と観察力によって、ロシアの支配層が押し付けたプロイセン軍の諸制度がその愚かな日常主義と兵士に対する魂のない態度により実戦に適していないことを見抜いた。

彼は、盲目的な従順さと疲弊するようなパレードの訓練の人為的な導入は、ロシア人兵士の最高の戦闘能力を有害に抑制する事に繋がると説いた。ピョートル一世の仲間であり、彼の兵法の伝統を受け継いだサルティコフ元帥の指揮の下、七年戦争の戦いに参加した彼は、外国人、とりわけプロイセンの偽支配者への屈辱的な奉仕が、ロシアにおいて、ロシア軍事芸術の歴史的伝統とは異なる命令体型を軍隊に押し付け、ロシア軍の弱体化、ロシア軍事芸術の衰退をもたらすとした。彼は、プロイセン軍に対するサルティコフ元帥のロシア軍の決定的な優越をはっきりと見ており、クネルスドルフ(1759年)付近でのプロイセン軍の敗北、ドイツ軍の壊滅的な逃走、そしてロシア軍のその他の勝利は、フリードリヒ二世が培った軍隊の教育・訓練というシステムの悪質な凡庸さを証明するものであった。

ロシアに戻った後、スヴォーロフの活動の全ては、フリードリヒ式の醜悪な線形戦術に対する抗議と、それらからロシア軍兵士たちを保護する事に宛てられた。すなわち、ピョートル三世などのロシア支配層主導にて行われた『プロイセン化』、訓練と規律による兵士の非人間化、有害なパレード主義の蔓延、に対する抵抗であった。この活動において、スヴォーロフは、西ヨーロッパの徴収された兵士たちの軍隊と対照を成す、兵役義務に基づいて配置された国民軍としてのロシア軍の徴兵制度と、その構成に最も上手く対応するような軍隊の教育・訓練方法を見つける為に苦心することとなる。

七年戦争から帰還したスヴォーロフが編纂した『連隊制度』は、このような司令官の見解、つまりこの戦争への参加から直接導き出された結論を表現したものである。

『連隊制度』を編纂する際、スヴォーロフが半世紀前にピョートル一世が『軍事憲章』(Уставе воинском、1716年)で表明した進歩的な意見の連続性を保持したことは論理的と考えるべきだろう。ピョートル一世が表明した「命令のあるべき姿は憲章に書かれているが、時と場合が指定されていないことは留意すべきである」「盲目のように憲章にしがみついてはならない」という立場は、スヴォーロフが作った軍事教育・訓練システム全体の最初の基礎となった。『連隊制度』に含まれる多くの規定は、ピョートル一世の『軍事憲章』の規定を継承・発展させたもので、思想的にも密接な関係にある。

ピョートル一世が『軍事憲章』にて描いた最も重要な要件の1つは、「全員」、つまり将校も兵士も、「自分の立場を知り、自分の階級に義務を負い、無知で弁解してはならない」というものであった。

スヴォーロフは将校たちにも同じことを要求した。兵士の訓練について、「参謀の将校はそれをよく知り、それを示すことができるはずだ。」と指摘する。

『軍事憲章』には、部下に対する父性的な配慮を持つべきであると解くと共に、上級指揮官は厳しく、不服従には罰を与え、しかし公正であるべきだと書かれていた。「規律の弱い集団ほど、人を悪に導くものはない。」と、憲章は説いた。「その例として、恐怖と罰のない、弱い意志の中で育った子供たちは、通常、問題に陥る…軍隊では、指揮官は兵士の父親であり、彼らを愛し、配慮し、罪を罰することが必要である。そして、規律が弱まると、兵士たちは従順でなくなり、善良な者と不忠実な者から悪人が生まれ、そして我らの名の下に悪事が行われるようになる。」これに習い、スヴォーロフは中隊長の職務を概説し、「中隊長は、中隊の父たるべきで、部下に真の愛を持ち、その安心と喜びを大切にし、厳格な軍事的服従を保ち、その職責の前にある全てのことにおいて、部下を指導すべき。」と指摘した。

『軍事憲章』は、個人の自発性、自尊心、軍人としての誇りを基礎に部下を教育するよう求め、「不惑(すなわち自信、自制、勇気)は全ての教育の母であり、それを守らない者は全ての効用を失う」、「不惑だけが軍隊を育てる」と指摘した。一方、スヴォーロフは『連隊制度』の中で、「どのような場合でも、誰もが明るく、勇気があり、大胆で、自分自身を信頼できること」を保証する必要性を指摘した。彼は、教育に必要な要素として、「屈辱によらない従順」を挙げている。

スヴォーロフは『連隊制度』の最後の部分で、「盲目的な勇気のみが敵に対する勝利をもたらすと考えるべきではない。勇気に裏付けされた軍事芸術のみが唯一の方法である」と書いている。

ペトリン派の軍事教育を受けたスヴォーロフは、それを継承・発展させると同時に、彼が繰り返し師と仰いだロシアの有能な指揮官P.L.ルミャンツェフ(、1725~1796)の例を踏襲した。

広く知られているように、ルミャンツェフは、ピョートル一世が築いたロシア正規軍の軍事的伝統の問題を受け継ぐ者として、兵士を個人的な自発性を欠いた盲目の実行者に変えてしまうプロイセンの杖型規律に断固反対した。彼は部下に非常に厳しいが、同時に部下に対して公平で思いやりがあった。彼の指示で書かれた『中隊長への訓示』(Инструкции ротным командирам)の中で、将校は自分の部隊のすべての兵士の名前と姓を知り、彼らの婚姻関係とニーズを知り、常に彼らの世話をする義務を負っていると書いた。彼は、兵士に屈辱を与えてはならないと要求し、中隊長の恣意的な行動を止めさせた。彼は上司はすべてにおいて部下の模範となるべき存在であると説いた。

ルミャンツェフは新しい戦闘方式を初めて採用し、直線的な部隊編成を独立した戦術単位である方陣や縦列に分割することを可能にした。これにより、野戦機動に広い道が開かれ、戦闘部隊間の相互作用の発展に寄与した。

ルミャンツェフは、『軍事芸術に関する考察』(Мыслях о военном искусстве)や『兵法様式』(Обряде службы)の中で、当時としては先進的な見解を示している。特筆すべきは、兵法について、「幸福の足跡を盲目的に追う」のではなく、「戦闘には努力だけでなく訓練も必要」、つまり、常に自己を向上させる必要があると指摘していることである。

ルミヤンツェフのこの先進的な考え方を、若きスヴォーロフがどれほど温かく受け止めたかは言うまでもないが、彼はそれを自身の戦闘、著作に活かすだけでなく、見事に発展させ、やがて大胆な革新者、改革者として登場する。スヴォーロフの努力は、ルミャンツェフと同様に、ピョートル一世の死後、ドイツ人によるロシアの支配層の支配と密接に関係していた衰退期のロシア軍の復興に向けられたものであった。

『連隊制度』の他の特記すべき事項としては、その中で詳細に規定された軍事訓練の方法論に注目する必要がある。これは今日に至るまでその重要性を失っていない。偉大な指揮官の訓示には、訓練によって、戦争で知っておくべきこと、できるようになるべきことのすべてを意識的に同化させるという配慮がはっきりと見れる。この点でも、他の事柄と同様に、スヴォーロフはプロイセン体制の軛を大胆に破り、魂のない「方法論」に対抗して、兵士の訓練方法について合理的で深く考え抜かれた進歩的な指示を出した。

スヴォーロフは訓練において、まず第一に、適切な順序を要求した。部隊のあらゆる種類の戦闘訓練において、訓練は単純なものから複雑なものへ、簡単なものから難しいものへと実施されることになっていた。そのため、例えば、連隊に到着した新兵の隊形訓練に関連して、『連隊制度』は、「新しく定められた新兵は、脚の動きを十分に訓練する必要がある。集団訓練の前に手の一つ一つの動作は教育されるべきで、その後、一人ずつ、六人の集団で、一列の隊列を組んで、そして最後に全体の三列での訓練が行われる必要がある。兵たちの間隔は最初は十一歩、次に九歩、最後に七歩であるべきである…」などと示した。

教育の一貫した方法論は、表示、反復、管理で構成されていた。

将校は、「部下が手持ち無沙汰にならない上に、思い出すのに苦労したりしない適切な間隔にて、部下が実践し、証言できるよう訓練する」に義務を負っていた。一度合格したとしても、今度はは「疲れずに」行えるよう繰り返すことが必要であった。だから、例えば、警備の問題では、スヴォーロフはこのように要求した「普通の当直の兵がやらなければならないことは、自分の立場を忘れないように、それは、しばしば確認されなければならない。」上司は、部下が何をどのように学んでいるかを常に監視する必要があった。訓練中だけでなく、警備中、演習中、作戦行動中など、部隊のあらゆる勤務・戦闘活動で管理する必要があった。

『連隊制度』で結論づけられたスヴォーロフの部隊訓練法の研究は、兵士に対する深く人道的な、しかし同時に厳格な態度と相まみ、偉大なロシア人指揮官の素晴らしい戦闘訓練の学校、部隊の教育と訓練のシステムを私たちに明らかにした。それこそがロシア軍の最高の軍事伝統を復活させ、新しい勝利を得るための前提条件を作り出したことは疑いの余地もない。

スヴォーロフは、自分が達成したことに満足することはなかった。彼は部下たちに、勝利は勇気だけでなく、それと結びついた兵法によっても得られることを指摘し、「一度得た知識を忘れがたい記憶にとどめるだけでなく、日々の実験によって何かを加えてはどうか」と問いかけた。

『連隊制度』は、軍隊の教育や訓練に関するマニュアルだけではない。指揮官の権利と義務や連隊の職員、武器、食糧、財産、人員の金銭的な維持管理に関する情報など、一連の参考資料が添付されているのである。したがって、『連隊制度』は、将校と下士官のための資料であり、彼らの公的活動における統一を目的とした手引書であった。

「連隊制度は、一般的な立場と各個人の知識の調和に役立つ」とスヴォーロフは書いてる。「それは(文章化することによって)誰の記憶にも負担をかけず、本書内の指摘事項を満たせば、誰の立場もその修正のために過剰な心配に導くことはできない。」この素晴らしいマニュアルは、スヴォーロフが初めて自分の軍事観を表明した著書になる。

・4・

スヴォーロフがその後の数年間、軍隊の戦闘訓練の問題をどのように見ていたかは、私たちに伝わっている彼の命令書や各種書簡から判断できる。それらから、スヴォーロフは『連隊制度』で開発された軍事教育・訓練システムを何年も適用し続けたことがわかる。1771年3月3日付のワイマーン元帥宛の書簡で、スヴォーロフはこう書いている。

「私の連隊に与えた制度によれば、私の運動は捧げ銃、構え銃、という形ではなく、まず回頭の訓練、次に様々な行進訓練、各種技術的訓練、射撃訓練、そして最後には銃剣による攻撃訓練であった...」スヴォーロフは、彼の作ったシステムに従って教育・訓練された部隊の指揮官として、ますます戦闘経験を積んでいく。彼の命令は、部隊の構築と戦闘の新しい方法を概説した。1771年6月25日の命令には、「...明るさ、勇気、大胆さはあらゆる場所、あらゆる場合に必要とされるが、訓練から学べる戦争芸術(すなわち、経験の蓄積から)から逸脱したならば、それらは無駄であるに過ぎない。」と書いた。

興味深いのはスヴォーロフの命令で、そこには、戦うべき作戦地域の性質や敵の特徴に関連して、部隊に柔軟な戦術を要求している。

そこでスヴォーロフは、機動的で数の多いトルコ騎兵隊に対抗する必要性を念頭に置き、連隊長に次のように要求している。

「小隊ならびに中隊の縦列形成の訓練を行うべきである。また、縦列をしっかりと統制したまま、高速で、すべての方向へ行進できる訓練も必要である。また、これらの訓練は時には突撃してくる、あるいは離脱する蛮族共への射撃を想定したものであるべきである。これらは攻撃的に行うべきで、様々な障害や地形を想像力を持った解釈にて実施すべきである。これらの攻撃はすべて予備を有した状態で行われ、予備は完全な中隊である。この予備も機動を行い、右であれ左であれ、自ら攻撃に向かえるよう訓練される。蛮族は野戦で打ち負かすことが可能である。歩兵の方陣はそこから繰り出される射撃により、彼らの悪夢と化す。方陣は、どんなに困難な場所であっても、攻撃的に用いられるべきであり、柔軟性に欠け、指導的精神が得られない防御的運用では、活躍することができない...」(1774)同じ命令の中で、スヴォーロフは方陣形成の素早さを強調している。

「歩兵連隊長の諸君」と彼は書き始める。「連隊をこれらの機動に慣らすことは非常に重要である。一つは直線的な横列から、つまりある地点にとどまった状態から、もう一つは縦列から、機動中に。方陣形成は素早く行うべきであり、その後、横列あるいは縦列への変形も同様である…」スヴォーロフは、ルミャンツェフにならって、1773年のトゥルトゥカイ(ナポレオンより20年も早い!)の時代に、最も柔軟で機動的で、同時に大きな影響力を持つ戦闘隊形を模索し、散兵線により正面を防護された攻撃用の縦列を用いた。縦列の使用について、彼はこう書いている。

「縦列は、もし兵士たちがそれの指揮官以上に勇気と揺るぎない意思を授かっているならば、どのような隊列よりも優れている。将校が、正面に銃剣を下ろすよう命令すれば、騎兵によって不可侵である。その隊列はあらゆる陣形よりも柔軟で、動きが速く、止まらなければすべてを突破する。」(1778)。この点で、ロシアの軍事技術が西ヨーロッパよりどれほど先を行っていたかは、想像に難しくない。当時、フランスが列を組んで攻撃したのは1792年のゼーマンの戦いだけで、オーストリアはアウステルリッツ(1805年)まで横列戦術に固執し、プロイセンは1806年にイエナやアウエルシュタットで時代遅れのフリードリヒ戦闘隊形を使用しようとしたが、敗北した。イギリス軍に至っては、1815年のワーテルローの戦いでも、直線的な陣形を使用していたのである。

戦争の主役を偶然に委ねたナポレオンをはじめとする多くの同時代人とは異なり、スヴォーロフは、急速な機動速度と偉大な先見性を巧みに組み合わせ、慎重に取るべき行動を考え抜いた。A.カラチャイへの指示の中で、彼はこう書いている。

「軍人の美徳とは、兵士にとっての勇気、将校にとっての勇気、将軍にとっての勇気であり、秩序と規律の原則に導かれ、警戒と先見性によって統制される…」(1793) P.スクリプンツィンへの手紙の中で、指揮官の行動を次のように表現している。「…戦いの日、あるいは作戦の日、彼(すなわち司令官)はすべてを天秤にかけ、熟考する…彼は決して状況の偶然に流されず、それらを自分に従属させ、常に用心深く先見性をもった規則に従って行動する。」(1794-1795年)

それは、すなわち、主導権を握り、敵の意志を制圧することである。

スヴォーロフは、部下に盲目的な従順さを求めるプロイセン流とは対照的に、あらゆる方法で将校や兵士の機転、臨機応変さ、状況の変化に応じた大胆な行動力を教育・育成していった。スヴォーロフが「非知識人」に対していかに不寛容であったかはよく知られているが、彼らはプロイセンの悪質な兵士教育システムを表現するために、愚かにもステレオタイプな回答をした。

「……もし誰も一言も話せないなら、不意の敵襲のときに何の役に立つだろう。アレクサンドル・ヴァシリエヴィチは、これが攻撃の一般的な気構えであるべきであり、細部は指揮官の状況、理性、芸術、勇気、確固たる意思による。と何度も言っている。」

スヴォーロフは、1799年のイタリア遠征の際に、こうした見解をさらに深く展開した。ヴァレッジョの街にて発令された連合軍の部隊に対する命令の中で、彼はこう示している。

「作戦計画を知らされるのは、主席指揮官だけでは十分ではない。下級指揮官も、それに従って部隊を統率するために、常にそれを念頭に置くことが必要である。さらに、大隊、中隊、小隊の指揮官であっても、同じ理由で、非貴族将校や下士官であっても、それらを知っていなければならない。各兵士は自分の作戦を理解しなければならない。」スヴォーロフは部下が上級指揮官に異議を唱えることさえ許したが、その際は「礼儀正しく、人と人として」(つまり、顔と顔を合わせて行うこと)を要求している。

単に与えられた命令や想定される状況への対応だけでなく、状況の変化に応じて個人的なイニシアチブを取ることを部隊全体として義務付けるシステム、つまり自分たちの役割に対する理解における高い意識は、スヴォーロフ流の人材教育・訓練に基づいてのみ起こり得ることであった。これは、いわば、スヴォーロフが『連隊制度』で兵士に求めた最初の要求を大きく発展させたものであった。

「…絶え間ない訓練を続け、自分の立場を繊細に観察し、怠惰な休息を犠牲にし、軍務への勤勉な欲求からなる真の心の平安を得、不滅の栄光を自分のために獲得せよ。」アレクサンドル・ワシリーヴィチ・スヴォーロフの35年近くにわたる長い、創造的な軍務の道は、その間、軍隊の教育と訓練のシステムを改良し続けた。

・5・

1796年、スヴォーロフはトゥルチンの南西軍司令官に任命された。この任命は、当時のロシアの反動的な支配層が、共和制フランスを弾圧し、フランス国民によって打倒された王権をフランスに回復するために、西ヨーロッパに進軍する計画に関連していた。

そのための部隊はトゥルチンスキー駐屯地で訓練された。スヴォーロフが、困難で長期の作戦に備えるに、長年にわたる軍隊の教育・訓練と、数々の戦争での勝利の原動力となった経験を、後に『勝利の科学』と呼ばれる短い指導メモに纏めたのはこの時期と考えられている。

この『勝利の科学』は、量的にはわずか十数ページで、教育、訓練、戦場での行動に関する軍規を極めて簡潔にまとめたものであり、すべての兵士が容易に学び、暗記することができるものである。この最後の点は、『勝利の科学』が兵士にとってわかりやすい言葉で書かれ、「言葉はごちゃごちゃしているが、思考は広々としている」という、規則に従っていたことからも伺える。また、この本の大部分は口語にて描かれており、それは本書をさらに覚えやすくしていた。

『勝利の科学』は二部構成である。『戦闘前の指導』と、『兵士に必要な知識についての彼らの言葉での指導』である。

第一部では、野外演習の実施方法について簡単に説明している。まず、兵士の心構えを説き、戦闘作戦の遂行能力を図るために、規律、部隊の結束力、武器を扱う能力などのテストから始めることを要求している。これを行えて初めて、小部隊の一部としての戦闘訓練、部隊全体としての戦闘訓練に進むべきであるとされる。『勝利の科学』は、攻撃について特別な注意を払っている。スヴォーロフは、移動する敵、つまり騎兵隊や予備部隊との戦いに備え部隊を訓練することを要求した。『戦闘前の指導』では、歩兵や騎兵に対し、攻撃で対抗することを要求している。「行け、行け!銃剣で!ウラー!敵の戦列は、この最後の射撃は、30歩にて行われる。あとはこちらも突撃だ。両翼より攻撃せよ。」

『戦闘前の指導』では、戦闘隊形を横に広く展開した横列、移動する敵にも常に反撃できる可能性を保持する方陣、そして縦列による攻撃の訓練を提供する。さらに、ある戦闘隊形から別の戦闘隊形へ柔軟に移行するための速やかな陣形変更も要求する。

実弾射撃と組み合わせたこの戦闘訓練法は、すべての兵士を戦闘での積極的な行動に慣れさせるだけでなく、実戦的な状況に限りなく近づけることができた。「平時でも兵士は戦争状態でなければならない」とスヴォーロフは指摘し、軍隊の実態に最も近い形態で部隊を訓練した。

第二部『兵士に必要な知識についての彼らの言葉での指導』では、軍事教育の基本やさまざまな戦闘状況での戦い方の指導が行われている。

スヴォーロフは、軍隊の教育と訓練について、簡潔な言葉で、戦闘状況において必要なものだけを訓練すべきだという主旨のことを述べている。

「学習は光、無知は闇。匠は技に勝る。そして、もしも農民が鋤の持ち方を知らなければ、パンは生まれない。厳しく訓練せよ。厳しく訓練すれば、作戦は簡単である。簡単な訓練は困難な実戦をもたらす。兵士は学ぶことが好きだ、それは賢明なことだろう。」

スヴォーロフは、兵士が避けるべきである悪徳とされる行為を的確に揶揄している。

「英雄たちよ!英雄たちよ!敵はあなたたちから震えている。そう、救貧院よりもひどい敵がいる。呪われた非知識者、ヒント、嘘つき、狡猾、雄弁、二枚舌、偽善者、バカ。」スヴォーロフは「非知」を追い出すことに特に執着していた。彼は常に兵士に思いがけない質問をし、即答を求めた。そうすることで、彼は兵士たちに臨機応変さと自然な創意工夫を身につけさせた。ある晩、スヴォロフが腕時計の上に立って星空を見上げる兵士を見かけた。スヴォーロフは、気づかれないように近づき、こう尋ねた。

「軍曹よ!空にはいくつの星がある?」
「5623万、8331個!」と、臆面もなく兵士は即答した。
「そんなことはない!」スヴォーロフが反論した。
これに、兵士は機知に富んだ答えを返した。
「陛下、もしよろしければ、私の言葉が間違っているか数えて確認してください」
「神よ、慈悲を!よくやった!」と叫ぶと、スヴォーロフは喜んで彼に褒美を与えた。

(訳注:わかりにくいですが、スヴォーロフが兵士が間違っていることを証明するにはスヴォーロフ自身が空の星を数えなければならない、という一休さんに似たトンチの効いた解答を軍曹がした、というお話です。)

しかし、「わからない」という言葉がスヴォーロフに大きな喜びを与えたケースもあった。あるとき、スヴォーロフは若い将校に会い、彼を呼び止めて尋ねた。

「退却とは何だ?」「私にはわかりません」と将校は冷静に答えた。
「わからないとはどういうことだ?」スヴォーロフが怒った。
「閣下、わかりません」と将校は繰り返した。「この単語は我々の連隊では知られていません。そして、私は聞いたことがありません」

これでスヴォーロフはたちまち上機嫌になった。

「栄光の連隊だ!栄光の連隊!」と叫んで笑い、周りの人たちに向かって言った。「あの忌まわしいバカが、これほどの喜びを与えてくれるとは思わなかった。」『勝利の科学』の最後は、兵士が持つべき資質のリストで締めくくられている。「服従(軍事的服従)、運動(演習への積極的参加)、従順、訓練、規律、軍事的秩序(部隊内の軍事的内部秩序)、清潔、健康、整頓、明るさ、大胆さ、勇気、勝利!栄光、栄光、栄光!」このスヴォーロフの文章を注意深く読めば、兵士が訓練の中で適切な資質を獲得する順序だって獲得できるよう、深く考え抜かれ、まとめられていることを理解するのは、難しいことではない。

スヴォーロフが『勝利の科学』の条項で定めた軍隊の教育と訓練の基礎は、当時のロシアの困難な農奴制の条件下でも、ロシア軍の高い士気と西ヨーロッパの軍隊(広く知られているように、徴兵形態が道徳的、ならび政治的に大きく異る)に対する計り知れない優位性を確保した。

『兵士に必要な知識についての彼らの言葉での指導』では、敵との戦い方に関する一連の指示も含まれている。これらの指示は、『勝利の科学』全体と同様に、活動の精神に染まっている。

スヴォーロフが推奨するのは、銃剣による攻撃と射撃の併用である。「(訳注:数多くではなく)まれに、そして正確に撃て。銃剣のほうが良ければ銃剣で。」「銃口の中の弾丸に気をつけよ。3人が飛び込んできたとしよう。1人目を刺し、2人目を撃ち、3人目は銃剣でお陀仏だ。(карачун)」攻撃では、スヴォーロフは最大の迅速さを要求する。「ぶどう弾にも臆するな、弾丸は頭の上を飛び越えるだろう。銃も仲間も。その場で斉射を続けば勝たん。残った敵には慈悲を与えよ。無駄な殺生は罪である。彼らは同じ人間である。」

敵の要塞への攻撃は、同じ素早く行われるべきとする。

「切り欠きを突破しろ、落とし穴には板をかけろ、速く走れ、柵を飛び越えろ、ロープを投げろ、溝に降りろ、梯子をかけろ。射手は、柱を片付けろ!頭を狙え!縦列は、壁を飛び越え、薙ぎ払い、縦に横に駆け巡り、火薬庫を守り、騎兵隊の為に門を開けよ!敵は市内に逃げ込む。奪った大砲を向け、街路に激しく撃ち込み、素早く砲撃せよ。この後は時間がない。命令しろ!街へ、街路で敵を切り刻め。騎兵隊、突撃!…」スヴォーロフは、攻撃の方向を区別している。「側面に」、「真ん中に」、つまり正面から、そして「背面から」。最後が最も好ましいとされている。

スヴォーロフは「三つの武術」を挙げ、それらは目、速さ、攻撃を指している。一つ目は、戦闘において。「どのように行き、どこで攻撃し、追い込み、叩くか」を判断するために必要なものとされる。速さは、人を酷使しないために、行軍の編成を工夫することで実現する。「敵は私たちのことなど気にも留めず、私たちを100マイル先、遠くからなら200、300、あるいはそれ以上と遠くにいるとみなすだろう。突然、我々は彼の頭の上に降りかかる雪のように襲いかかる。彼の頭は混乱してしまうだろう。来たるもの、神の遣わしたもので攻撃せよ!騎兵隊、突撃!刻め、撃て、駆逐せよ、断ち切れ、逃すな!ウラー!兵士たちは驚くべき働きをする!」、そして、攻撃で敵の撃破を完成させる。「脚は脚を、腕は腕を強化する」「最後の勝利の説き、騎兵、駆け、斬る。騎兵は交戦し、歩兵はそれに追従する。二列には力あるが、三列はそれを上回る力がある。第一列が引き裂き、第二列が倒し、第三列が完成する。」(訳注:直訳では三列は一半の力)

スヴォーロフは『勝利の科学』の中で、敵の状況や性質に応じて戦闘隊形を使い分ける必要性を表明している。彼は、「正規兵に対する野戦では横列で、アタマン(訳注:トルコ人)には方陣で…(フランス軍は)ドイツ軍などには縦列で戦っており、もし我々が彼ら(フランス軍)と戦うことになったら、縦列にて戦う必要がある。」

非常に興味深いのは、スヴォーロフが兵士の健康維持のために捧げた訓令である。健康的な食事、身の回りの清潔と整頓、仕事と休養の正しい交代などに絞った指示である。さらに、スヴォーロフは、職務の範囲内で全員が絶え間なく活動することを要求し、これが精神的、肉体的な強さを維持する保証になると考えていた。

スヴォーロフの『勝利の科学』に基づいて実施された部隊の戦闘訓練は、部隊に高い戦闘能力をもたらした。この戦闘訓練は、戦争で知っておくべきこと、できるようになるために必要なことすべてについて、当時としては優れた訓練が授けられたことを示していた。スヴォーロフ軍事教育訓練学校に合格した師団は、一流師団となった。指揮官たちは、作戦や戦闘で部隊を動かす優れた技術を身につけた。ロシア軍は当時の最先端を行く軍隊となった。

・6・

『勝利の科学』は、アレクサンドル・ワシリーヴィチ・スヴォーロフを代表とする、ロシア独自の軍事芸術の顕著な記念碑である。

スヴォーロフが『ルールを守っていない戦い』をしていると、同時代の人々がしばしば不満を漏らしたことは知られている。

ナポレオンは「スヴォーロフ元帥は強い意志と偉大な活動性、そして紛れもない大胆不敵さを備えていたが、彼は天才でもなければ兵法の知識も持っていなかった…彼は計画も計算もなく行動した」ランツコロナでの敗北後、フランスのデュムリエス将軍は、スヴォーロフには軍事の知識がないと主張し始めた。

将軍は「スヴォーロフは熊としか戦えない」と言った。「以前は、陣地を取って正面からロシア軍を待つと、後方から現れたり、側面から攻撃してきたりするものだった。部隊は敗北よりも驚きから散り散りになってしまった。1799年のイタリア遠征の後、オーストリアの将軍たちは、トレッビアとノヴィの戦いにおいて、「スヴォーロフの配置は、軍事技術の規則に合致していない」と不満を述べた。

このような多くの非難に対して、スヴォーロフはあざ笑うように答えた。「戦術も知識もない相手に、君たちは負けているのか。」また、自分の勝利を類まれな幸運のせいだとする人々に対して、彼はこう言った。「今日が幸運で、明日も幸運だ。幸運には時には技術も必要だ。」

スヴォーロフの『勝利の科学』は、偉大な指揮官のこの言葉の深い正しさを、説得力を持って証明している。

アレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・スヴォーロフは、当時の高学歴者であった。六カ国語を流暢に操り、当時ロシア語に翻訳されていない作品に取り組む機会もあった。コンチャンスコエに亡命してからも、スヴォーロフは雑誌や新聞を購読し、読書を続け、西ヨーロッパの出来事をつぶさに見ていた。彼はナポレオンにいち早く注目し、1796年から1797年のイタリア遠征の後、こう言った。「少年は遠くまで歩いている。そろそろ手綱を手放す時だ…」

アレクサンドル・ワシリーヴィチ・スヴォーロフは、同時代の兵法に対する深い理解に基づき、大胆にも軍事に斬新さを導入し、時代遅れの規範を破り、陳腐なパターンを打ち破った。彼には定形とされるものはまったくなかった。スヴォーロフが部隊を率いた戦いの一つ一つが、蓄積された知識ならびに経験と、新しく独創的な考えが融合した決断の鮮明な例となっている。

スヴォーロフの指揮官としての才能は、この顕著な特徴、すなわち、常に自己研磨し、軍事技術を発展させる新しい方法を創造的に見出し、時には大胆に、完全に新規の解決策を提示することである。しかし、このことが本来的に持つその異質さと相まって、同時代の人々はしばしばスヴォーロフを理解できなかったという事実がある。一般に受け入れられている型にとらわれていた彼らは、スヴォーロフを軍事術の基本的な基礎に無知であると非難した。

言うまでもなく、そのような非難が馬鹿げていることは言うまでもない!

『勝利の科学』は、ロシア人の軍事的才能を示す驚くべき証言であり、ロシアの武器を伝説的な勝利の栄光で覆ったアレクサンドル・ワシリーヴィチ・スヴォーロフがたどった創造的な軍事的道のりを鮮明に証明するものである。

・7・

過去と現在の軍事理論思想の発展に関する研究は、その発展のあらゆる段階において、資本主義社会が戦争と関連する問題の研究に科学的研究を適用することができないことを、確信を持って示している。

ブルジョア科学の形而上学的、形式主義的概念の中で迷走し、理想主義的世界観の囚われの身であった過去の軍事指導者、指揮官、理論家たちは、戦争の科学的説明を見つけ、その根底にある法則を明らかにすることができなかった。

これは、階級が廃止され、人間による人間の搾取が永遠に終止符を打たれた、わが国の社会主義国家の条件のもとでのみ可能となった。ソビエト軍事科学の創造は、その独創的な創造者である同志スターリンの名をとって、我々が正しくスターリン主義軍事科学と呼ぶものであるが、人類の歴史上初めて、軍事知識の分野に高度な科学的実証をもたらしたのである。

スターリン主義軍事学は、K.E.Voroshilovがその論文『大祖国戦争の偉大なる司令官』(Гениальный полководец Великой Отечественной войны)にて書いているように、「社会発展の法則の正しい理解に基づいて、労働者階級の権力獲得とともに生まれ、ソビエト国家体制に基づいて発展し強化された。計画経済による新しい社会主義社会秩序、新しい生産力、人々の生産関係、新しいイデオロギー、道徳などの決定的な要素は、スターリン主義軍事科学の全建築物の基礎を形成している。」

同志スターリンは、ソビエト軍事科学の壮大な建物を建設した。それは、勝利した社会主義の偉大な時代の軍事科学であり、共産主義を建設する時代の軍事科学である。彼は、社会の発展に関するマルクス・レーニン主義の教義の最も進んだ唯一の科学的な規定に基づいて、それを見事に立証し、それによって、我々の弁証法的物質論的世界観を反映した。これは、ブルジョア軍事思想が、クラウゼヴィッツ、モルトケ、シュリーフェン、ルーデンドルフ、ドゥーエ、フラー、リデルハート、カイテル、および同様の疑似権威のような軍事思想家の遺産を発展させて、以前に公言し、現在もかなりの程度公言し続けている戦争観、その形態、戦術、戦略に対する完全な革命である。

同志スターリンの偉大さは、戦争の経験を総括し、歴史上初めて、軍事術の枠組みを大胆に超え、それによって、戦術と戦略の問題のみを対象とする古い「古典」軍事学の伝統を打ち破る軍事学を創造したという事実にある。同志スターリンは、戦争の方法、すなわち兵法の研究だけでなく、自国と敵国の経済的、道徳的能力に関する知識と考察を含む軍事科学を創造した。

周知のように、ソ連の軍事学は、大祖国戦争中に最大の発展を遂げた。『ソビエト連邦の大祖国戦争について』に収録されている同志スターリンの命令と演説は、スターリンの軍事科学を研究する上で、私たちにとって無尽蔵の資料となる。

同志スターリンの偉大な知恵、敵を倒すために社会主義国家のすべての力と手段を動員すること、戦争中、あらゆる瞬間に、わが軍と状況の優勢な条件に対応する戦争の形態を正確に使用すること、戦争の原動力と主要因の輝かしい開示、その科学的定義、そして最終勝利を達成するための見事な使用において、その偉大な先見性が、そこに含まれている命令、報告、スピーチの中に見られるのである。

すでに述べたように、過去の軍事理論家や指揮官は、戦争術に厳密な科学的正当性をもたらす可能性を認めなかった。兵士の真の性質、戦略、戦術、作戦術に影響を及ぼす兵士の発達のパターンは、彼らにとって未発見のままであった。

この点に関して科学的に立証されたシステムが構築されていなかったという事実だけで、戦争の遂行において、常に作用する全ての要素が必要な程度まで使用されなかった理由となったのである。過去の最も優れた指揮官でさえ、戦争の本質を理解していなかったため、現在、ソビエト軍の幕僚に用意されているソビエト軍事科学に開かれているすべての可能性を適切に適用することができなかったのである。

アレクサンドル・ワシリーエヴィチ・スヴォーロフは、過去の最も優れた指揮官の一人である。彼は、同時代をはるかに先取りしていた。彼の『勝利の科学』は、当時のロシアの先進的な戦争芸術を示す顕著な例である。スヴォーロフは、そこに示された軍隊の教育と訓練の原則に基づいて、輝かしい半世紀の軍役を経て、数十の主要な戦闘を指揮し、一度の敗北も知らなかった。エンゲルスはスヴォーロフを「勇敢な権威」、「ロシアの将軍」と呼ぶ。また、その言葉にふさわしく、スヴォーロフの軍事的才能が、ロシア独自の軍事術に基づくものであることを指摘している。

しかし、スヴォーロフの『勝利の科学』は、彼が蓄積した膨大な実践経験に基づいて創作したものであり、戦争の結果を決定する絶えず作用する要因のうち、主に一部の始まりだけを用いており、同じ程度には至っていないことを指摘しなければならない。

そもそもスヴォーロフの戦争芸術には、軍の士気という恒常的に作用する要因がある。プロイセン流の兵士の教育は、徹底的な訓練と非人間的な規律に還元されていたが、スヴォーロフは、兵士に対する思いやりと人道的な態度に基づき、知性、活力、イニシアチブ、尊厳、勇気を授けた。これらは与えらた戦闘任務を遂行するための能力を兵士に与えた。この二つの根本的に異なる教育システムは対比される。兵士が自分の大義の正しさを信じ、自分の武器と力を信じ、自分に自信を持てるように教育することが、『勝利の科学』全体を貫いている。「自分自身への信頼は勇気の基礎である」とスヴォーロフは何度も言っている。

スヴォーロフは、西ヨーロッパの傭兵による軍隊のような抑圧され、主体性のない兵士ではなく、ロシア人兵士に、自ら与えられた任務を意識的に遂行する意思を提起した。「各兵士は自分の作戦を理解しなければならない。」

スヴォーロフは、あらゆる方法で兵士の間に仲間意識と相互扶助の感覚を育み、それが部隊の戦闘効果をさらに高めることを熟知していた。「自分は死んでも、仲間を救え。」危険時の相互扶助の考え方は、スヴォーロフが、戦闘状況に応じて、戦闘中の小部隊や部隊全体の緊密な協力を要求する中で発展させたものである。

スヴォーロフは兵士に、地元住民に対する人道的な態度を要求した。スヴォーロフは1794年8月23日付の命令書で、「住民にわずかでも不快感を与えてはならない、税金や怒りを与えてはならない、戦争は彼らではなく、武装した敵との間にあるのだ」と記している。「平民を怒らせてはならない、彼らは我々を養い、水を与える。兵士は強盗ではない」とスヴォーロフは『勝利の科学』の中で指摘している。

募集要項に基づいて徴兵された、すなわち国民軍であった、ロシア軍が、冒険家やあらゆる犯罪者、脱落者が相当数勤務している西欧の軍隊に比べて、いかに道徳的に優れていたかは容易に理解できるであろう。

さらに、スヴォーロフが常に兵士に非常に近い存在であったことも、軍の高い士気の強化に大きく貢献した。スヴォーロフは、単純に兵士たちの扱いをよくする一方、親身な誠意と父性的な配慮を行った。勝利の秘訣を問われた時、スヴォーロフが独特の簡潔さでこう答えたのは偶然ではないだろう。「兵士を愛すれば、彼もあなたを愛してくれる。それが秘訣だ」

兵士たちは栄光の指揮官を信じ、どんな困難があっても彼に従った。アレクサンドル・ワシリーエヴィチ・スヴォーロフが軍隊の中でいかに権威を持っていたかは、同時代の人々の手記に数多く残されている。「神の思し召しで、親愛なる父に会えるかもしれない」と、『スヴォーロフに従軍した老兵士の物語』(Рассказов старого воина о Суворове)の著者は書いている。「父よ、私たちのところへ来、お望みのところへ、言われたところへ連れて行かん。そして、私たちは、胃の上ではなく、死の上にて、血の最後の一滴まで、すべてあなたのものです。」

部隊の教育と密接な関係にあったのが、スヴォーロフ式訓練システムである。これは、師団と軍全体の戦闘訓練の質の高さを保証するものであった。この制度では、まず、その教育方法が注目に値する。上級指揮官は、必要な説明を伴った実演によって教え、部下に模範を示すことが義務づけられた。「部下の兵士を注意深く訓練し、彼らの模範となれ」とスヴォーロフは1793年に書いている。そして、彼自身が最初の模範を示したのである。スイスの作戦の後、すでに体調を崩していた彼は、何度もこう言った。「結局のところ、私は一兵士なのだ。」そして、兵士らが彼に異議を唱え、休むよう訴えると、彼はこう答えた。「しかし、兵士は私を手本にするのだ」フリードリヒ二世とその不幸な従者たちの凡庸な傲慢さは、このスヴォーロフの先進的な指示からどれほど離れていたことだろうか!

同様に注目すべきは、スヴォーロフが軍隊の訓練に投入した内容である。彼は、兵士の訓練から、まっすぐな足にて行われる、パレードの訓練法や複雑な操銃術を追放した。その代わりに、彼は戦争で必要なものだけを兵士に訓練するようになった。この要求は『勝利の科学』全体を赤い糸のように貫いており、すべての野外演習や、『兵士に必要な知識についての彼らの言葉での指導』はこの要求で飽和している。

『勝利の科学』に含まれる偉大な指揮官の素晴らしい格言や、その命令には、どんな型にもはまらない最大の活性が浸透している。「敵は私たちのことなど気にも留めず、私たちを100マイル先、遠くからなら200、300、あるいはそれ以上と遠くにいるとみなすだろう。突然、我々は彼の頭の上に降りかかる雪のように襲いかかる。彼の頭は混乱してしまうだろう。来たるもの、神の遣わしたもので攻撃せよ!騎兵隊、突撃!刻め、撃て、駆逐せよ、断ち切れ、逃すな!ウラー!兵士たちは驚くべき働きをする!敵に正気を取り戻させてはならない。怯む者は既に負けたと心得よ。恐怖は大きな仲間を作る。それは10人に1人は現れるだろう。」

このような戦闘行為と広範囲に及ぶ実戦演習は、戦闘状況下での作戦を完璧に準備した部隊にのみ可能であった。

スヴォーロフ式部隊教育訓練システムの坩堝の中で、それと密接に協力しながら、幕僚組織も形成され、鍛え上げられた。この素晴らしい学校から、指揮官や優秀なロシア人将軍が育ち、部隊を動かす名手となったのである。その中でも、スヴォーロフの一番弟子で、ロシアの兵法を発展させ、さらに高いレベルに引き上げ、1812年にロシア軍を率いてナポレオン軍の敗北と破壊を組織した同僚のミハイル・イラリオノビッチ・クトゥゾフが第一にあげられるだろう。また、スヴォーロフの同僚で、戦いに精通し、後にクトゥーゾフの部下となるピョートル・イヴァノヴィチ・バグラチオンや、ミロラドヴィチ、イェルモロフなど、スヴォーロフとともに困難だが名誉で輝かしい道を歩んだ多くの人々が含まれている。

これまで述べてきたことから、スヴォーロフは、まず、軍隊の士気、師団の質、指揮官の能力といった恒久的な要因の原理を、広く実践活動に利用していたことがわかる。『勝利の科学』が鮮やかに証言しているように、彼はこれらの原理をあらゆる方法で部隊の中に強化・発展させ、その上に立って高い戦闘効果を実現したのである。同じ『勝利の科学』から、スヴォーロフは、これらの要素を、大胆な、時には大胆な野戦機動や、敵にとって不都合な側面から攻撃する奇襲といった彼の軍事指導に特徴的な戦闘方法と広く組み合わせ、「一般に認められている」横列戦術やコルドン戦略を覆していることがわかる。スヴォーロフ軍の高い戦闘力、兵士や将校の率先した行動、部隊や陣形の戦闘における密接な相互作用と相互扶助、これらすべてが、平凡な日常と衒学が支配し続ける敵に勝利する道を開いたのだ。

大半の戦闘で、スヴォーロフは相手よりはるかに少ない兵力で戦っていた。ロシア軍の武装(特に大砲の量に関連して)の技術と装備は、大いに不満が残るものであった。

アレクサンドル・ワシリーエヴィチ・スヴォーロフは、軍隊の精神的、肉体的な力を動員することに長け、戦闘と戦闘全体の実施方法に卓越した技術を持ち、状況判断と敵の弱点を理解することに並外れた鋭さを持っていたが、戦争の結果を決定する絶えず作動するすべての要素を適切にカバーすることはできなかった。スヴォーロフは、物質主義的な科学研究の方法を持たず、戦争の実際の社会的性質を理解することから遠ざかっていたため、まず、経験から知っていたように、最も重要なものである「人」に注意を払い、その育成と訓練に力を集中した。このことは、『連隊制度』やその後の命令にも赤い糸のように通っており、『勝利の科学』の中でも生き生きと表現されている。

高度なマルクス・レーニン主義の教義の基礎の上に、社会発展の法則の弁証法的物質論的理解で我々を育んだソ連の社会と国家システムの条件の下でのみ、軍事科学とそれに含まれる軍事芸術の問題の包括的で真に科学的な発展が可能になったのである。

同志スターリンによって創造されたソビエトの軍事科学は、資本主義国家が夢見ることさえできなかった我々の軍事技術の可能性を切り開いた。大祖国戦争の壮大な経験全体は、スターリンの軍事科学の輝かしい、深遠な科学的命題を見事に裏付けている。ソ連軍科学の基礎に依拠し、戦力と手段を強化し、発展させ、戦争の結果を決定する絶えず作用する要因に関する同志スターリンの立場に従って、我がソ連軍は、大祖国戦争中に、資本主義軍では達成できなかったような巨大な戦力を構築した。

同志スターリンは、1946年2月23日の命令で、「長く困難な戦争から、赤軍は、高い士気と戦闘能力を持ち、完全に近代的な武器、経験豊富で熟練した指揮官を持つ、一流の軍隊として出現した」と指摘した。これは、同志スターリンの指導の下で、ソ連の軍事技術およびわが国の軍事科学全体が力強く発展し、繁栄したことを意味する。

「大祖国戦争中のソ連最高司令部の戦略は、前例のない規模の作戦、並外れた決意、引き受けた作戦の徹底的かつ包括的な支援、新しい戦闘形態と方法を発見する能力によって区別され、それらは意図した目標、実勢状況に最も完全に対応し、敵にとってそれは完全に予想外であった。」同志スターリンは、優れた軍事理論家だけでなく新しいタイプの司令官の素晴らしい例を我々に見せたのである。過去の軍事指導者の中で、同志スターリンが大祖国戦争中に行ったような何百万人もの軍隊を率いた者はおらず、同志スターリンが行ったような複雑で壮大な任務を、わがソ連の社会・国家構造の最大の可能性に依存して解決した者はいなかった。

このすべては、ソビエト軍事科学に基づいてのみ達成することができ、それは、ソビエト軍事技術のさらなる発展のための最も広い展望を我々の前に開いている。

マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの思想の偉大な生命力は、我々の社会主義社会と国家システムの継続的に成長する力、我々のソビエト国家とその軍隊の力の中に具現化されているが、共産主義への道を進んでいる時、レーニンとスターリンの党が我々の前に設定し、偉大なスターリンが我々を導いている。

出典

Георгий Николаевич Караев, "Суворовская «Наука побеждать» в свете передовой советской военной науки", 1950http://militera.lib.ru/science/karaev_gn/index.html


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