雑記「変わらぬものに目を向けて」

 中学生のときのわたしは、快活で自信たっぷりだったような記憶がある。そして、それを惜しみなく表出させていた。誰に対しても、である。
 一方いまは、別に明るいとはあまり言えず、隠しているつもりもないが積極的には表に出さなくなった。
 中学生だったのはもう5年も前で、そのことに驚くけれど、まあ5年もあったら人間は変わるものだ。それがいい変化かどうかはわからないけれど。

 中学時代の思い出にいつも付随してくるのは一冊の、正確には二冊のノートと、ひとつのメモ帳。わたしの青々とした姿が包み隠さず載っている場所。
 創作をしていた。今ならあれは夢小説の亜種だったとわかるそのノートの上には、仲の良かった人、大好きな人がたくさんいて、そして、彼らの筆跡もまばらに残っている。メモ帳には、いつか彼らに言わせようと思っていたのであろうわたしの決意が残っていた。真っ直ぐな力強さをまとって、確かにそこに残っていた。

 先日、部屋を片付けている際にこのノートとメモ帳を見つけた。最近は存在への意識がすっかり薄れていて、だからこれを見つけたとき、懐かしいなと思ってついうっかり読み返してしまった。
 何もかもが幼い。幼く見える。けれど、「言葉で人を笑顔にする」の記述を見つけたときに、ああ、この頃から大きくは変わっていないのだなと思った。

 「言葉で人を笑顔にする。それがわたしの目標だ」
 中学生のわたしははっきりとそう言い切っている。あのときのわたしは言葉がもっと万能なものだと思っていたし、わたしの言葉で人を笑顔にできると強く信じていて、今となってはとても言えることじゃない。でも、わたしが関わるすべての人に笑顔でいてほしいという想いは変わっていない。
 袖振り合うも多生の縁。せっかくわたしと袖を振り合ったのなら、どうか幸せでいてほしい。

 高校生のときになってようやく、言葉は不完全で、考えていることすべてを伝えられはしないのだと知った。そして、わたしが非力であることも理解した。なぜだか無敵だったのだ、中学生のときは。
 それでもわたしは、自分ができる範囲で、手の届く範囲であなたを幸せにしたい。たとえ不完全でも、それでも、わたしがずっと扱ってきたのは言葉で、そしてそれはたとえ不完全でも力を持っていると知っているから、わたしは懲りもせず言葉を使い続ける。

 誰かの笑顔を願うこと。そして言葉を使うこと。このふたつは中学生のときからずっと変わっていない。これからも、変えていきたくない。
 だけど、気をつけなければいけないのは、言葉はノロイにもマジナイにも転じうるということだ。
 言葉は無かったことにできない。不用意に扱えば誰かにとっては生涯の枷になり、慎重に扱えば誰かにとっては一生のお守りになる。たとえ慎重に扱っていても人を苦しめることがある。

 だからわたしは、丁寧に言葉を扱っていきたい。誰も傷つけず、呪わないような、それでいて力のある言葉を届けていきたい。時間も場所も越えて、もう会わなくなってしまったあなたにも、名前も知らないあなたにも、どうか、届きますように。そして願わくば、あなたが幸せでありますように。

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