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アマゾンプライムお薦めビデオ③ 142:映画の文法としての「会話の公準」とそこからの逸脱:ベルトリッチ監督の傑作!『暗殺の森』

この映画には無駄がない。すべてのシーン、すべての動きに意味がある、というか人はそれを見て意味を考えざるを得ない。そんな人間が人間であることの特性を最大限に引き出させてくれる作品、それがこのベルナルド・ベルトリッチ監督の『暗殺の森』である。

唐突ではあるが、ここで「会話の公準」(協調の原則)というものを紹介したい。言語学者のポール・グライスが提案したものだが、人は会話をするとき、次の4つのことを前提というか暗黙の了解としているというものである。

①量の公準:話し手は求められているだけの情報を提供しなければならない。
②質の公準:話の内容は話し手にとって正しいと思われるものである。
③関連性の公準:提供する情報がその時点での会話に関連するものである。
④様式の公準:提供する情報は明確に話される必要がある。

しかし、実際の会話でこの4つの条件が満たされているケースはむしろ少ないであろう。つまりこの公準は話し手の側にではなく、むしろ聞き手の側が話を聞くときに適応するルールであると言える。相手が話している時、人はこの4つの公準に照らし合わせながら、その話を聞いて理解しようと努めるのである。

そして同じことは映画にも言える。人は映画を見るとき、その映画から与えられる情報をこの4つの公準に当てはめながら理解しようとするのである。しかし、多くの会話においてこの4つの公準が満たされていないように、多くの映画においても(というか多くの魅力的な映画においても)、この4つの公準が満たされていることは少ない。逆に言うと、この4つの公準が満たされている映画はむしろ映画としてはつまらない、というか分かりやすすぎて映画としては魅力的ではないのである。しかし、かといってこの4つの公準から離れすぎてもそれはもはやわけのわからないもの、混乱したもの、混沌としたものとなってしまう。映画監督というものが、それを意識的にやっているのか無意識的にやっているのかは分からないが、魅力的な家がを作る監督というものは、そこのバランスが見事なのである。

この映画においては、先の4つの公準は見事なバランスでずらされている。例えば、量の公準で言うと、画面上に移る情報は見事に情報過多である。これは関連性の公準とも関係してくるが、例えば、主人公が家のメイドにおくる視線は「このメイドと何か関係があるのかな」と見るものに思わせるが、しかしそれは直接的にはストーリーには関係してこない。また、これは様式の公準に関係してくるが、映画上の時間軸が前後していたりもする。つまり、この映画において、監督であるベルトリッチは見事に見るものを混乱させることに成功しているのである。しかし、それでも観客はそこに意味というか一連のつながりというものを見つけようとするし、事実、見つけることはできる。しかし、そこには同時に、意味やつながりというものに解消されないものも残る。それこそが意味に還元されない印象であり、映画の魅力なのである。写真や絵画というものがそうであるように、映画というものも、意味=言葉に集約することができないものなのである。しかし、それでも人は映画を見た後で何かを語りたくなる、何かを言いたくなる衝動に駆られる。意味やつながりという枠の中に解消されないものでさえも、人は言葉=意味によってでしか迫り得ないからである。その意味で、映画というものはそのための一つの装置であるとも言えよう。語り得ぬこと、語りつくせぬことを語らせようとすること、つまりは意味=言葉の向こう側にあるものを意味=言葉によって迫らせようという装置であると。そしてこの映画は見事にそれに成功している。

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