
SF名作を読もう!(26) 我々にとっては『ドラえもん』がSFの入り口だった。マンガ家浅野いにお氏による『ドラえもん』レスペクトにして再解釈『デデデデ』こと『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』
SFの名作と言われるものを紹介しているこのシリーズだが、今回はちょっと毛色の違うものを紹介したい。まんが家浅野いにお氏の力作『デデデデ』こと『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』である。先に「ちょっと毛色が違う」と述べたが、マンガという点で毛色が違うわけではない。いわゆるSFかというとそうとも言い切れないという意味で毛色が違っている。そう、これがSFかと言われるとシチュエーションとしてはそうかもしれないが、内容、テーマとしてはそうではない。ここでのテーマは愛情であり、友情なのだから。
この作品、アニメ化もされたので耳にした方も多いかもしれない。かのYOASOBIの幾多りら氏とあのちゃんはまさにぴったりというはまり役であった。私もアニメから入った側の人だが、オリジナルの漫画はやはりすごかった。アニメ版ではちらりと触れられていたにすぎない「いそべやん」だが、マンガ版、特にコミックス版では必ず巻頭と巻末に配置されるしかけとなっている。そしてそれが見事に作品本体のメインストーリーと絡んでくる。これは別にネタバレでも何でもないので言ってしまうが、「いそべやん」は「ドラえもん」そのものである。近年でこそ短編SFシリーズが復刻されるなど、ここにきてSF作家としても再注目を浴びている藤子・F・不二雄先生であるが、「ドラえもん」は設定こそSF的だが作品としては少年向けギャグマンガである。そう、いまでこそ、特に映画版においては感動作として捉えられている「ドラえもん」だがここで思い起こしてほしいのはもともとは少年向けのギャグ漫画だったという点である。のび太はダメ人間で、ドラえもんはダメロボットだった。そしてそのダメさ加減は時に暴力的でもあり、狂気的でもあった。我々当時の少年少女はそんな「ドラえもん」こそを愛していたのである。そして『デデデデ』における「いそべやん」は見事にその暴力性と狂気性と、それ故のブラックも含んだギャク性を十分に発揮している。浅野いにお氏の藤子・F・不二雄先生(というかA先生も含む)へのレスペクトがここには感じられる。
と、この漫画の鍵ともいえる「いそべやん」について語ってきたが、本編自体もおそらく当時の多くの少年少女は『ドラえもん』を通してこの言葉を知ったとも言える「パラレルワールド」ものである。そしてこの「パラレルワールドもの」はその性質上、どうしても切ないものが多い。なぜなら、パラレルワールドで描かれるのは、あり得たかもしれないもう一人の私、もう一人の私の人生だからである。そしてその「パラレルワールドもの」における「私」は多くの場合、ある人生の分岐点とも言える際に、何かを選んだ私であり、また何かを選ばなかった私である。「あの時ああしていれば」「あのときああしていなければ」それを思うとき、人はセンチメンタルな気持ちになる。というか人はセンチメンタルな気持ちになった時、「あの時ああしていれば」「あのときああしていなければ」と思うのである。そう、この『デデデデ』こと『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』はまさにその「センチメンタル」という感情を見事に作品化したものなのである。だからこそ、我々はこの作品を読んで涙を流すのである。
そしてこの作品、「パラレルワールドもの」であるが故に、それを読んだものにあり得たかもしれないもう一つの可能性、あり得るかもしれないもう一つの可能性を、想起させるし、そうさせるような仕掛けにもなっている。特に、最後に出てくる「デーモンズ」と呼ばれる2機の戦闘機、というか戦闘ロボットのくだりはそうであろう。主人公の二人、凰蘭と門出が夜な夜なシューティングゲームをしていたのはこれへの伏線だったのでは、と思わせてくれるし、そうであってほしいと思わせてくれる。そう、「パラレルワールドもの」であるが故に、そこには終わりはない。そこにあるのは無限の可能性である。そしてその可能性は読者に開かれているのである。