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SF名作を読もう!(27) グラフィック・ノベルという「文学」。そしてこの形態だからこそ実現できた傑作。アラン・ムーア作、デイブ・ギボンズ画『WATCHMEN』(ウォッチメン)!

前回、浅野いにお氏による傑作『デデデデ』を取り上げて思ったのだが、なぜ、今までマンガをこのマガジンで取り上げてこなかったのだろう。正確に言えば「マンガ」というより「グラフィック・ノベル」である。いわゆる「アメリカン・コミック」こと「アメコミ」と日本の漫画(マンガ)の違いは議論の的となることは多いが、私に言わせれば、どちらも基本的には同じである。そう、アメコミもマンガも「読み物」でありその意味で「文学」なのである。アメコミのことを「グラフィック・ノベル」とも言うが、まさにその通りで、その意味で日本の漫画/マンガも「グラフィック・ノベル」である。そしてその中でも、傑作とされているのが映画化もされた、アラン・ムーア作、デイブ・ギボンズ画による『ウォッチメン』である。

この作品、まあ、ひとことで「スゴい」としか言いようがないのだが、その凄さは一言で言うと「スーパーヒーロー」の「リアル」を描いたところにある。もちろんこのスタイル、今ではある意味確立されており、『ザ・ボーイズ』や映画でいうと『ジョーカー』などにもつながっているのだが、この作品こそがその元祖であろう。『V for Vendetta』や『フロム・ヘル』といった傑作でも知られるアラン・ムーアの作品に外れはないが、この作品、デイブ・ギボンズによる画もよい。映画に例えれば、アラン・ムーアが脚本、デイブ・ギボンズが撮影監督、ということになるのだろうが、その画に無駄がない。無駄がないというか画でさまざまな伏線が張られている。ストーリーやセリフではなく、画により様々な情報が直接的にではなく間接的に伝えられる。そう、それこそがアメコミの魅力であり、マンガの魅力であり、グラフィック・ノベルと呼ばれるジャンルの神髄なのである。グラフィック・ノベルにおいて、我々は決してストーリーだけを追っているのではない。我々はまさに「画」を追っているのである。文字情報はむしろ「画」のおまけといいだろう(ただ『ウォッチメン』の場合は各章のあいだにさしこまれている「読み物」も面白いが)。

とはいうものの「画」は人の想像力を制限するものであることもまた事実である。例えば、この作品に出てくる「DR.マンハッタン」。ある意味神にも等しいスーパーヒーロー中のスーパーヒーローだが、おそらく小説として文章でその姿が説明されれば、人によって頭に描くその像(イメージ)は様々であろう。しかしそれがグラフィックとしてまさに「画」で示されれば、それはそれこそが正解でそれ以外の正解というものはなくなってしまう。が、人の想像力は制限があるからこそさらに働くものでもある。例えばその声は、その息遣いは、その体温は、と人は更に想像を膨らませる。そしてさらに人はそこに書かれていないものまでをも想像する。人気漫画が同人により二次制作されるのはそこに理由がある。そう、小説であれ、グラフィック・ノベルであれ、そこに出てくる登場人物はその作品を愛する人にとっては、もはやそれは「存在」するもの「実際に存在する物」(=実存)なのである。そこではそれが架空の存在なのか、実際に実社会に存在する存在なのかということはもはや問題ではない。たとえそれがフィクショナルな存在だとしても、私にとって、そしてあなたにとって、彼/彼女は間違いなく存在するのである。そしてそのような「存在」をも「存在」として認識できるのが我々人間なのである。

と、話がちょっと哲学的になったが、まさにこの作品こそが(というかアラン・ムーアの作品はすべてがそうであるが)ある意味哲学的である。ネタバレにならない程度に言えば、いわゆる鍵かっこ付きの正義のヒーローである「オジマンディアス」はその「正義」のためにとんでもないことを行う。そしてそれは多くの常識人にとっては明らかに間違った行動である。かく言う私もそれは明らかに間違っていたと思う一人である。しかし、この作品はそれでは終わらない。善悪、正義と悪を超越した次元にまで読む人を持っていく。事実、最後に神にも等しいDR.マンハッタンは言う。「最後?何事にも最後などありはしない」と。

これは、私なりに解釈すれば、いわゆる哲学における「実存主義」に対する批判というかアンチテーゼというか、その発展形である。サルトル的な「実存主義」は「個人」という存在に重きを置いていた。しかし、今やその「個人」という存在こそが問い直されているのである。有機体としての「私」は確かにいつかは死ぬであろう。しかし、「私」という存在は少なくとも「私」と関係があった人、たとえそれが「私が書いたものを読んでくれた人」という程度の関係であっても残るのである。であれば、肉体的な死をもって終わりとすることはもはやできないであろう。そう、死は最後ではないし、先にも述べたように、人はフィクショナルな存在をも存在として捉えることができる。となると、「実存」という意味もまた変わってくるであろう。「私が私として生き抜くこと」それが「実存」であることには変わりがない。しかし同時に、と言うかさらに「私が生き抜くこと」が終わった後も、「私」は何らかの形で人々の間には生き続けているし、これは私の持論であるが、今の時代「アバター」という形で人は「自分以外の存在」として「存在」することもできるのである。であれば、「私が肉体的に死んだあとも、私が私として存在し続けること」「私が私以外の存在として、しかしそれでもなお私として存在し続けること」これが、これからの実存主義の課題となってくるであろう。

そしてそのヒントは案外「SF」の世界にあるのかもしれない。SFとは基本的に未来、あるいは近未来の小説、フィクションではあるが、それは限りなく現実(ノンフィクション)とリンクしている作品なのだから。SFにおける「あり得る未来」は現実としても「あり得る未来」なのである。たとえそれがディストピアであったとしても。

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