アマゾンプライムお薦めビデオ③ 117 :痛快!ジャパニーズグラインドハウス映画としての『シュシュシュの娘』
現実的にあり得ない。話に無理がある。そんなことを言うのは野暮である。なぜならこの映画、コロナ禍に見舞われたミニシアターを救おうとした有志によるミニシアターのためのいわゆるグラインドハウス映画なのだから。
監督の入江悠氏は『サイタマノラッパー』シリーズで名を挙げた人である。しかしその一方で、『ジョーカー・ゲーム』『22年目の告白 -私が殺人犯です-』『ビジランテ』『AI崩壊』といったいわゆる商業映画でも着実に成功を収めてきた。その彼が、原点に回帰し、というか原点に恩返しする形で、自費+クラウドファンディングで制作したミニシアターによるミニシアターのための自主映画が本作である。そしてそれ故に本作はいわゆる「グラインドハウス映画」、言い換えればある限られた映画館である限られた観客(=好きもの?)のみが見ることができる映画である。
「グラインドハウス」とは基本的に「エクスプロイテーション」な映画を指さす。「エクスプロイテーション」とは直訳すると「搾取」「利用」となるが、エクスポロイテーション映画とは一般にセンセーショナルな時事問題をあえて取り上げている(「利用」している)作品群のことを指す。しかし、一方で「搾取」という意味から、「搾取」されている側の復習の映画であることも多い。
本作で取り上げられている話題も、外国人排斥といった、まあ、世界的な「話題」でありその目的のために「利用」されたものの復讐譚である。もちろん「外国人排斥」という声に対する答えは「No」なのだが、エクスプロイテーション映画である本作においては敢えて「Yes」組が強調され、それに対する反逆、復讐組として「No」の側の活躍が取り上げられる。このような構図自体が実際にはあり得ないのだが(少なくとも今の日本においてはYesの声がNoの声を上回ることはない(と期待したい)のだが)、しかし、これこそが「あえて」としての「エクスプロイテーション」なのである。「No」側が最後に勝つのは当然分かっている。しかしそれでも観客はその「No」側に肩入れし、応援するのである。そう、やくざ映画時代の高倉健が最後には復讐するのを分かっているうえで、観客は高倉健を応援したように。そしてそれはいわゆる「正義は勝つ」といった単純なものではない。むしろ関心はそれが「正義」かどうかよりも、むしろそれがどう「反逆」してくれるかというところにあるのである。「反逆」は当然「暴力」でもある。「暴力」は決して「正義」ではない。しかし/そしてそれが痛快であり、それに観客は肩入れするのである。そう、観客は「正義」に肩入れするのではなくむしろ「暴力」に肩入れするのである。しかし、その暴力はまさに「暴く力」なのである。
しかも、この映画、それに「忍者」という「?」の要素も加わっている。そうそうすることによりこれも敢えてのB級感を出している。「グラインドハウス映画」とは「エクスプロイテーション映画」とは、そして「自主製作映画」とはB級である、というかB級でなければいけない。「低俗」でなければいけない。しかし、ここでいう「B級」や「低俗」とは決して映画としての質の低さではない。テーマとして「低俗」なものを扱いながらも、いかに映画としての質や魅力を高めるか、それこそが「グラインドハウス映画」や「エクスプロイテーション映画」が目指しているところであり、それを意識しているにせよいないにせよ、観客が楽しんでいるポイントなのでもある。そしてこの映画はそれに見事に成功している。だからこそ観客は最後の復習の場面に拍手喝采を送るのである
最後に一言付け加えれば、この映画の主演があの一時はアイドル女優的な存在であった福田沙紀であることに私は最後まで気づかなかった。というか気づかせなかった点こそが、この映画のすごさであり、魅力であり、今の福田沙紀のすごさなのである。一皮むけたという表現があるが、今の福田沙紀は一皮も二皮も向けた存在である。今後のさらなる活躍に期待である。