アマゾンプライムお薦めビデオ④ 161:時代劇だからできることはまだまだある!草彅剛主演、白石和彌監督『碁盤切り』
ついこの間劇場公開されていた映画がアマゾンプライムビデオで観られるようになると「あれ、この映画あまりヒットしなかったのかな。だからアマプラに売って制作費を回収しようとしているのかな」などと考えてしまうが、ヒットするしないといい映画かどうかは関係はない。そしてこの映画、間違いなく「いい映画」である。
まあ、いまやある意味日本一の俳優と言ってもよい草彅剛氏と白石和彌監督が組んでいるのだから、間違いないのは確実だが、とにかく良い。何が良いかと言うと、俳優が良い、演出が良い、撮影が良い、ストーリーが良い、といいとこづくめなのだが、今回は敢えてその「ストーリー」に注目したい。
良くも悪くも時代劇の定番である。だから良い。そしてやくざ物(実録路線である『仁義なき戦い』以前の高倉健時代のやくざ物)としても定番でもある。主人公こそやくざではなく浪人であるが、訳あって不遇の身に落とされ貧しい生活をしているのが、あることが契機となり、復讐に向かう、という一見単純明快なストーリーである。
しかし、ストーリーとしては単純明快であっても、その背景にある事情は単純明確とは言えないこともまたこの作品はしっかりと描いている。主人公は正義感の塊のような人物だが、その正義感により犠牲になったものもいる、という現実である。時代劇とは言うまでもなく今ではない過去の時代、過去の世界を描いているものである。そして、それ故にそれは未来を描くことの多いSF映画と同様にファンタジーでもある。当然そこではユートピアも描かれるだろうがディストピアも描かれる。「「本懐を遂げる」ことも可能である世界」という意味ではこの映画はある意味ユートピアを描いているのかもしれない。しかし、同時にしっかりとそこにある「現実」というものも描いている。そう、「現実」とは「理不尽」であり、その意味でディストピアなのである。そして我々は今も未来も過去もその中で生きざるを得ないのである。それが「現実」である。
と、ちょっと真面目な話になってしまったが、この映画、「復讐」や「人斬り=殺人」という今では許されない行為を正当化し、さらにはそれをある意味美談として描けているのは、これがまさに「時代劇」だからであろう(もちろん草彅剛氏をはじめとした俳優陣の演技力も大きい)。アメリカ製の『SHOGUN』のヒットはうれしい限りだが、同時に「これで日本が作る時代劇は終わった」と多くの人は思うかもしれない。確かに予算面や技術面ではどうあがいても勝てないだろう。しかし、時代劇だからこそできることはまだまだある。今の時代感覚では理不尽な話も、「これが当時の価値観だから」ということで押し通せるのだから。ゾンビ映画において人がいくらゾンビを殺してもいいのと同じ理屈である。「これは人ではない、ゾンビなのだから」と堂々と言えるように、そこにその時代ならではの「正義」があれば、それはそれで許されるのである。同じことは前述したやくざ映画にも言えよう。傑作『仁義なき戦い』以来、「仁義」は否定されたが、しかし「仁義」が正当化される世界さえ設定すればそこでは「暴力」も「正義」となるのである。
ヒーロー映画がもてはやされる昨今であるが、しかし果たして、我々は映画において「ヒーロー」を求めているのであろうか。いや、むしろ我々が求めているのは「ヒーロー」でも「悪」でもないが、まあ、筋は通す人物であろう。そしてその「筋を通す」ためには多少の暴力も容認される。その意味でも草彅剛氏はその二面性(ヒーローでもあり悪でもあること)を見事に演じている。草彅氏だけではない、國村隼氏しかり、斎藤工氏しかり、市村正親氏しかり、そして我らが永遠のミューズ、キョンキョンこと小泉今日子氏しかりである。皆、自分なりの「正義」があり、そのためには「悪」にもなるのである。
ちなみに、ここでのキョンキョン様は失礼ながらもはや美しくは映し出されてはいない(おそらく本人もそれを望んでいるし、監督もそれを意識している)。しかし、凄みがある。まさに「姉御」とでも言いたいような凄みである。しかし、それでもなお彼女はやはりキュートである。このキョンキョンの二面性、三面性、多面性こそがこの映画を象徴していると言えよう。繰り返すが、この映画、一見単純明快な時代劇ではあるが、実はそうではない。二面性、三面性、多面性を持った時代劇である。だからこその傑作なのである。