アマゾンプライムお薦めビデオ③ 121 :U149というギリギリの世界であるからこそ考えさせられる。『アイドルマスター シンデレラガールズ U149』
正直、アイドルマスター(以下「アイマス」)シリーズを全部見ているわけではないし、これらのアニメのオリジナルであるゲームの愛好家ではない。よって、「アイマス」ファンにとってはズレた発言になるだろうし、あるいは当たり前のことを述べることになることは十分理解している。しかし、それでもこの作品については一言語りたかった。つまりこの作品にはそれだけの何かがあるということである。
さて、この作品、「アイマス」シリーズでもある意味異色作である。タイトルにある「U149 」とは新調149センチ以下のことを意味している。そう、基本的にここに出てくる”アイドル”たちは基本子供、小学生なのである。
となると、大人の反応としては難しいものがある。事実作品中でもいわゆる大人のキャラは「大人の事情」という表現を何度も繰り返している。アイドルは決して性的な対象ではないし、むしろそうではないからこそのアイドルである。しかし、それ(性的対象)に近いものがあることは否定できないであろう。が、相手が小学生となるとどうか。その場合、我々は「性的」というものをすべて排除しなければならない。もちろん法的な問題もあるが、それ以前に「モラル」の問題だからである。
と、この作品、敢えてそのギリギリのところを攻めてきている。それは決してこのアニメに出てくるキャラたちが性的に魅力的だだという意味ではない。むしろそれは作り手側も十分意識したうえで極力排除している。そう、本当にこの作品に出てくる子たちは子供として可愛く、愛らしく、愛おしいのである。だからこそ見ている我々はその子を応援したくなる。しかし、その「応援」は本当に純粋な「応援」なのだろうか。我々(特に成人男性)が少女に対して「愛らしい」「可愛らしい」「応援したい」と思うとき、そこにあるのは、どのような気持ちなのか。この作品はそれを前面にこそ押し出してはいないが、それを問い詰めてくる作品である。そしてそれ故に残酷で魅力的な作品となっている。子役とアイドルは違う。子役はある意味可愛いだけでいい。あどけないだけでいい。しかし、この子を応援したい、この子を推したい、となってくるとそれはもはやアイドルである。では、その「応援」「推し」の裏にある気持ちは何か、それをこの作品は問うている。基本、これ以外の「アイマス」のアニメ作品は、そこに出てくるアイドルの年齢層はもう少し高い。そこにおいては「セクシー」を売りにしたキャラも登場してくるが、それはそのキャラ自身も我々見ている側もそれが「キャラ」であることは十分に承知している。そして我々はその「キャラ」を応援するのである。そこで行われているのは行ってみれば「キャラ」の売り買いである。両者の合意の上での「キャラ」の売り買いである。
しかし、この作品のように子供の場合はどうだろうか。「子供」とは一言でいうと、自分のキャラを確立できない段階の存在である。「キャラ」であれば、我々はその「キャラ」に対する愛をその「キャラ」に帰す/託すことができる。そう、アイドルとは言ってしまえば「キャラ」なのである。しかし、そうでない場合はどうか。子供が純粋だというのは幻想でしかないということは十分に分かった上でも、我々は子供自身がつくる「キャラ」というものを「キャラ」として見ることはできない。「キャラ」とは、一度自分を俯瞰して見ることができるようになって初めて作れる存在だからであり、子供たちはまだそれができる段階には達していないからである。つまりそこで行われるのは「合意」の上での「キャラ」の売り買いではない。そこで行われるのは買い手による一方的な「キャラ」づけであり、「キャラ」買いなのである。ここに子供をアイドルというビジネスに取り込む際のある意味倫理的な問題がある。
しかし、このような意見に対しては逆の見解もあるだろう。だからこそ、子供だからこそ、純粋な意味でアイドル足り得るのだ、と。キャラを作らない/作れないでも、それ存在がアイドル足り得るのは、まさにその存在自体がキラキラと輝いているからだ、と。恐らく、この作品としてははそちらのほうを言いたいのだろう。しかし、それに対してはさらに次のような批判もあろう。それは子供の純粋性の大人による搾取だ、と。さらに言えば、その「子供の純粋性」こそが大人たちが作り出している商品なのだ、と。子供たちは、子供であるからこそ、ある意味皆、家族なり親戚なり誰かにとってのアイドルである。しかし、そのアイドル性はせいぜい半径数メートルから数十メートルの世界である。それを半径キロ単位から数万キロ単位にしてしまうのが、「ビジネス」としてのアイドルの世界であり、その世界を操っているのは大人たちである。このアニメにおいては登場人物の少女たちは基本的にはそこ(ビジネスとしてのアイドルの世界)に行くことを望んでいた。もちろんあくまで「基本的には」であり、それ以外のケースも見事に描かれているが、しかし結果的には望んでいなくてもそこに行くこと、そこにいることの意味と意義を発見していった。一方、我々、見る側は、応援する側どうだろうか。そう、このアニメでも描かれているように、アイドルとはアイドル自身だけではなく、そのアイドルを応援する側も含めてのアイドルなのである。アイドルを応援する、アイドルを推すということは、その存在自体を、そのアイドルがそのアイドルであるという姿勢自体を応援するということなのである。であれば、アイドルというのは結局はその「姿勢」の問題なのだろうか。本人がアイドルであろうと望み、務めるのであれば、それはアイドルなのだろうか。そしてここでまた先の疑問が繰り返される。その「姿勢」、あるいは意気込み自体が、結局は大人たちによって作られたものではないのか、「作られた」とまでは行かないとしても誘導されたものではないのか、という疑問である。
通常は、この疑問はアイドル達の年齢的な成長とともに解消される。自分で自分のことを決定できるようになるからである。事実、ももクロのように結婚しても離婚してもアイドルを名乗っているグループはあるし、そこから出ていく人たちもいる。今やそれができるし、それが名乗れる時代でもある。この子たちがどう育っていくか、この、今U149と呼ばれている子供たちが、5年後、10年後、どう育っていくか。ドラマとしては一応完結したが、是非、それを追ってもらいたい作品である。
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