プレイバック・シアター研究所所長・羽地朝和の働くということ
働くとは。これについて書くことは、生きるとは何かと同じように難しい。まずは縦軸にプレイバック・シアター、研修講師、会社の経営、横軸に年代が続く年表をひろげて、浮かんでくるストーリーから始めます。
働くことを意識した記憶をたどると防衛大学校が思い浮かびます。毎月お金をもらい、小銃や制服を付与され、訓練を受け、学生の立場ながら奉公することで生活と保証を受けていたのでそれも仕事だったと言えるでしょう。防大の4年間一緒だったタイ人の留学生とウマが合いました。彼は士官候補生としてのプロ意識を既にまといながら、軍人というものをどこか客観的に見ていました。3年時の夏休みにタイに行き、彼の実家に数日泊めてもらいました。彼の実家は陸軍の基地内にあり、そこにはたくさんの家族や親類であろう人々が住んでいました。軍人である彼の父親が両親や兄弟、その子供たち、そして説明してもらったけれどよく理解できなかった関係の人たち大勢を養っていました。タイでは軍人になると(階級にもよりますが)多くの家族を養うだけの収入を得られ、家も基地内に与えられるようです。彼も父の後を継いで軍人になり、大家族を支えることを期待され、既に許嫁もいました。働いて家族を養う生き方が定まっている同期の知らなかった一面に触れて感心しましたが、僕には自分が自衛官として生きることは思い描けませんでした。ただ、生きること、仕事をすること、働くことは同じという認識は持っていました。
けっきょく防大卒業後、自衛官には任官しませんでした。行き先の定まらない僕は、母から企業研修やワークショップをやっている岡野嘉宏先生に会いなさいと紹介され、何をやっている会社か分かりませんでしたが、本物があると感じ、社会産業教育研究所に入社しました。ここで企業研修、ワークショップ、セラピーに出会い、それから30数年、この世界で生きています。ファシリテーター、講師としての在り方、研修やワークショップの基本はここで培われました。今の僕の働き方は、岡野先生から多大な影響を受けています。講師として研修中に話すこと、ワークショップの中で見せる姿、経営者としての言動、そして自分自身。それらが一致しない矛盾。その岡野先生の一流のプロとしての姿と人としての不完全さを身近に垣間見て、その矛盾をフォローすることを僕は仕事として担いました。
一方でプレイバック・シアターの創始者ジョナサン・フォックスを社会産業教育研究所が招き、僕はプレイバック・シアターのワークショップや催しを企画して、学会や各方面に紹介したりと、プレイバック・シアターを日本に広めることに尽くしました。僕がプレイバック・シアターに傾倒すればするほど岡野先生との距離は離れていきました。僕が渡米してプレイバック・シアターのトレーニングを受けることを経済的に援助してくださり、仕事面で便宜をはかってくれましたが、手塩にかけて育てたスタッフが自分以外の人を慕い、違う手法に熱中していくことに抑え難い気持ちを持っていたことを今は理解できます。僕はプレイバック・シアターを人生をかけて取り組む気持ちが抑えられず31歳で社会産業教育研究所から独立してプレイバック・シアター研究所を立ち上げました。僕が独立してから数年がたち、岡野先生は沖縄での合宿中に倒れ、そのまま意識がもどらず沖縄でお亡くなりになりました。倒れられたのが僕の誕生日7月14日で、いつか感謝を伝えたい想いはかなわず2ヶ月後にお亡くなりになりました。遺骨はご家族と一緒に沖縄の海に散骨しました。僕は人生の最後をワークショップをやりながら迎えることをどこかで良しとしているのは、岡野先生への返せない恩義と追いつけない悔しさが年を重ねても薄れることなく、拭い去れないところからきているのでしょう。
プレイバック・シアターを広め、その効果を実証すると謳いプレイバック・シアター研究所の看板を掲げましたが、仕事はありません。朝起きて出勤する人々の靴音を寝床で聞く所在ない当時の感じ、今も仕事のない日はそれを思い出します。その頃の僕はプレイバック・シアターをやらせてもらえるならどこにでも行きました。高齢者施設、精神障害者の地域作業所、精神科クリニック、産業カウンセラーの勉強会、企業研修、日本心理劇学会、芸術療法学会、中学校や高校の授業、大学の非常勤講師、地域のイベント、そしてフィリピンでの芸術祭、韓国の元従軍慰安婦施設、ミャンマー各地。お金をいただけたらありがたく受け取り、手弁当でも必要とされると喜んで伺いました。そんな僕の周りに仲間が集まり、仕事の依頼が増え、自主開催のワンデイワークショップを毎月催し、プレイバック・シアターの探究にあけくれました。それが僕の人生であり、働くということでした。世はバブルがはじけ不況でしたが、僕は野望と活力に満ち溢れていました。 働くとは、自分のやりたいことをやり、才能と情熱を燃やすこと。この頃の僕はそう答えます。
心の治療にたずさわりたい、それも独立した理由のひとつです。社会産業教育研究所で高月病院のドクターとナース対象の研修を担当しました。院長先生も熱心に研修に参加してくださり、研修後にアルコール依存症の専門病棟でグループセラピーを担当しないかと声をかけられました。が、収益面で合わないので岡野先生は認めてくれませんでした。9年間お世話になった社会産業教育研究所をやめる時でした。プレイバック・シアター研究所を設立して高月病院のアルコール依存症治療プログラムを毎週火曜日に担当し、翌年にさいとうクリニックでプレイバック・シアターを毎週月曜日に担当することになりました。それから20数年グループセラピーにたずさわっています。
どうして人は心の病になるのか、僕ではなく親友が統合失調症を発症したのはどうしてなのか。彼を見捨て逃げた悔いと、どうすればよかったのかを、今も考えます。
続く
「はたらくことのリレーエッセイ」全記事はこちら↓