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アーツ・ベースド・ファシリテーター養成講座[第二期]に向けたディスカッション③

アーツ・ベースド・ファシリテーター養成講座が開講しました!

近年、教育現場のみならず、研修や組織開発、セラピー、コミュニティの分野でも注目されるワークショップ、ファシリテーション、そして アート。

二十年に渡りアートを基盤とした(=Arts Based )ワークショップを実践してきた
羽地朝和・岩橋由莉のふたりの講師が、アートを使った場づくり・ファシリテーションのエッセンスを全て教えます!

第二期は全回オンラインでの開催。それに伴い、各回の時間も第一期より延長します! さらに、絵の講座「イメージをプリズムに」でもおなじみの画家・田島環さんをゲスト講師にお迎えします。

詳細はこちら↓ ※満員御礼につき募集は終了しました

二期を迎えるにあたって、フェイスブック上で講師の羽地朝和・岩橋由莉がディスカッションをしています。そのようすをnoteでもご紹介します。

①はこちら↓

②はこちら↓

(前回②の続きから)


● 羽地 朝和[10月10日 0:38]
 
ゆりさんの凄みを感じます

でもわたしはなんの根拠もなく「表現教育家」という職業がやれると思ったし、この仕事はこれから社会で必要になる、と思ったのでした。
多分私が受けてきた教育からそう思ったのだと思います。
(中略)
でもなんの技術もなく丸腰で子どもの表現活動に赴く私は、いつも挫折の繰り返しでした。(中略)
仕事をいただいてもその先駆者はほとんどいないので、必死でその日その日を自分で考えたものをやりました。

"私が受けてきた教育からそう思った"
という教育とはどのような教育だったのでしょう
そしてゆりさんはこの講座でどのような教育をしようとしているのでしょうか


●岩橋 ゆり[10月13日 10:14] 

具体的にこの仕事をする、と決めたのは、
大学の授業でドロシー・ヒースコートが子どもたちと即興でドラマを作っている記録映画を見た時からです。

多分、11.12歳くらいの男の子ばかりの10数人と、初めて出会った彼女はニコリともせずに
今からドラマを作ります。何をやりたい?
と聞きます。

彼らは
「戦争ごっこ!殺し合い!」
と口々に言い、それにドロシーは深く頷きながら
オーケー。やりましょう。
と言います。

結局、捕虜収容所の話になり、捕虜と看守の駆け引き、捕虜の仲間の裏切り、とシリアスなドラマが進んでいきました。
終わった後に彼らにインタビューすると
「凄く楽しかった!ワクワクした!
劇だとセリフを間違ってしまわないかと思うけど、これなら自分の考えたことがそのままできる!」

厳密にどんな言葉を使ったかはもう忘れてしまいましたが
終わったあとのインタビューを受けてる彼らの
エネルギーがすごかったのを覚えています。

捕虜収容所のドラマをしているときは、張り詰めたような緊張感があり、そのあと、取り戻すように飛び跳ねるように話す彼らを見ながら
あんなドラマをやったあとなのに、なんでこんなに元気なの?
と不思議に思ったことがいつまでも残りました。

自分の考えたことが、そのままできる
多分ここが私の表現教育の原点かもしれないですね。
自分をフルに活用して、いろんな可能性を見出すことができる。

わたしは小さい頃から、いろいろなことに敏感すぎたために、それだけでダメージを受けていました。
なので、周囲の様子を見たり、まずここで要求されてることは何かを感じ取り、それだけをとにかくこなして、その場を離れないと、エネルギーがもたないのです。
それまでわたしが受けた教育とは、初めから容れ物があって、その中に入るためには自分は何を身につけなければならないか、という訓練のようなものでした。

ドラマは違いました。
人との関わりの中で
自分になっていくことを、自ら動くことで養う
そんなことに魅力を感じたのだと思います。

自分になる
ってなんですか?

とつっこみがあちこちから入りそう!と今書いてて
自分で笑ってしまった

今のわたしなら、「削ぐ」という行為を繰り返して、わたしを掘り起こすような感じです。
でも、ドラマ教育に出会ったばかりのわたしは
「目覚め」とか「成長」とかそんなものもあったと思います。

あ、そうだ!

ドラマ教育の特徴である
「何度でもできる」ことをやりながら自分の多角性を見る
こともそうです。
自分が「美しい」と思うことにであう
ことも自分になることと大いに関わってくるな。

人が作ったものではなく
自分の生きる場所を自分で作る
わたしの教育観の原点はそこから始まったのだと思います。
ま、そのあとだって、今だって
それを仕事にするとなると、いや、このわたしを生き続けること自体が
with七転八倒しながら、自分の不甲斐なさ、バカさに大笑いしながら
なんですけど笑


●向坂 くじら[10月15日 20:28] 

くじらちゃんやうららは事務局でもあり、企画者でもあるけど、
第1期生として参加もしてくれたよね。

なんか今手元に残ってるものはありますか?

(ゆりさん)
"私が受けてきた教育からそう思った"
という教育とはどのような教育だったのでしょう(羽地さん)
人が作ったものではなく
自分の生きる場所を自分で作る
わたしの教育観の原点はそこから始まったのだと思います。(ゆりさん)

ゆりさん、羽地さん、お二人ともわたしの拙い問いに答えてくださってありがとうございます! 話がすごく広く深くなっていったので、まずはおふたりがくださったお返事をパッチワークのように書き抜いてみました。わたしからもお返事させていただきます!

先日したわたしの投稿は研究所のスタッフとしての目線が大きかったのですが、今回はファシ講一期の受講生として話します。

一期で残っているものというと、パッと思いつくのは最後に作った「これからやりたいW/S」の図です。真ん中に結論として書いてあるのは、「学習する・表現する場所を作る」ということです。自分で振り返ってみても、なんだかすごくふつうです。

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わたしはこれまで、ずっと自分はワークショップを作りたいのだと思ってきました。羽地さんゆりさんおふたりの源流に、それぞれ岡野先生や、玉川大学の先生や、ドロシー・ヒースコートがいるように、わたしの源流にはふたりがいます。

わたしがふたりや研究所に出会ったのは2015年、大学三年のころでした。当時まだ二十歳で、もう六年前になります。最初にゆりさんのワークショップに行き、ABE研究会に通うようになってファシリテーションを学び、ミャンマーでのプレイバックにも連れて行っていただき、本当に刺激的でした。

"私が受けてきた教育からそう思った"
という教育とはどのような教育だったのでしょう

これはわたしに向けられた問いではないのですが、勝手に置き換えて答えてみます。

わたしが受けてきた羽地さん、ゆりさんの教育、それぞれに共通するところは、「見過ごさない」ことなのではないかと受講生として思っています。
ある場を開いていると、そこに集まっている人たちの中で色々なことが起きますよね。場全体としてもそうだし、ひとりひとりのなかでも様々なことが目まぐるしく起きます(というか、確信犯的に、それがわかっていてアートのワークショップを作っているんですよね?)。そういう膨大で瞬間的なことごとを見過ごさない眼差しをもっている。それがおふたりの特徴であり、わたしの憧れ続けてきたところなのではないか、というのが今の考えです。

これを「見捨てない」などといってしまうとなんだかニュアンスが変わり、支援的な響きを含んでしまうと思うのですが、そういうわけでもありません。プラスなものもマイナスなものも等しくとらえて、ただそこにあることを確認しながら進んでいく、という感じです。対処をするかどうかはさておき、なかったことにはしない……というような態度に思えます。ふたりに出会ったころの二十歳のわたしには、自分がさまざまなところで見過ごされているという実感があり、それでいて「見捨てない」という態度に対しては心を閉ざしてしまうかたくななところがあり、それでふたりの開く場がありがたかったのだと思います。

さて、そのような憧れからワークショップを作ろうと思い続けてきたわたしですが、ファシ講受講生として最終的に行き着いたのは前述した「学習する・表現する場所を作る」というところでした。これはわたしにとってはすごくふつうに思えます。研究所やいろいろなところでワークショップを作らせていただいて、あたらしいワークを、まだ誰も作ったことのない言葉の体験を……と思っているところに引き比べると、ありふれている気がします。ゆりさんにも、発表したときに「すごくシンプル」といわれました。

ですが、ファシ講を受けてきて思ったのは、わたしはワークショップという形式にこだわっているのではなく、羽地さんゆりさんのようなあり方のほうにやりたいことがあるのだ、ということでした。やりたい教育のことを突き詰めて考えてみれば、単発のアートの体験をいろいろなところで作っていくよりも、同じところで継続的に、表現と学習との双方を支えていくようなことがしたい。これは自分でも思いも寄らない発見でした。すでにふたりにはお話したのですが、これを大きなきっかけとして、いつか国語と表現の塾を作りたいと考えるようにさえなりました。

そうそう、思い起こせば、この講座はわたしともうひとりの事業部スタッフウララさんがオーダーするような形で作っていただいたのでした!

ワークショップやファシリテーションについてはもちろんなのですが、それ以上に自分がそもそもどう在りたいのか、ということを掘り下げて学べる機会として、あらためて心からおすすめしたいです。

ちょっときれいにまとめすぎでしょうか? 残席もあと1名、そして申し込み締め切りまであと2日になってしまったので、ちょっと滑り込みで宣伝をしたいということでお許しください!

もう実施まで近いので、ここからのおふたりにはぜひ講座に向けて語り残したことを聞いてみたいです!
(くじら)


●岩橋 由莉[10月19日 8:51] 

週末、羽地さんとファシ講の最後の打ち合わせを行いました。

1期もそうでしたが、満員御礼という状態でスタートを切ることができるのは本当にありがたいことだし、モチベーションもあがりますね!

事務局サイドから、始める前に言い残したことはないのか、
という問いだったので
少し考えてみることにしました。

今回4回目の特別講師でもあるたまちゃんこと田島環さんの話を少しします。
たまちゃんは、抽象画家であり、学校の美術の先生でもあり、ご自身でも絵画教室をされています。そして今、オンラインのアートワークショップをやっていただいています。

たまちゃんの絵は素敵なのは言うまでもないのですが
たまちゃんのファシリテーション力がすごい!と思うことが何度かありました。
そこらへんのことはたまちゃんのオンラインのアートワークショップを主催する時に企画側の想いとして一度書かせてもらいました。
作品を作っていく作業行程は基本クリエイティブで楽しいのです。が、作っているともちろんそうではないことも起きてきます。
時には自分の今の課題がもろにそこに現れている気もします。

それだからこそ、作品に愛着が湧いたりもするのですが、
同時に創作過程における個人の課題が現れて行き詰まり感も出てきます。
投影が起きてくるんですね。
たまちゃんは、それに対してのあり方が、
その人のやっていることを否定しない、受け止める、肯定する、けれどもそれ以上個人の問題には踏み込まない。
ここが素晴らしいです。
自分が美しいと思える形は、色は、作品は何か、という観点に焦点をあてます。
けれどもそのことを強制しようとはしない。
参加者のやりたいことが第一で。
どう思っても全てはその人のプロセスとして受け止めているようです。

他の現場はわからないのですが、
オンラインのアートワークショップにおいては
たまちゃんは、事前に一人ですべての作業を行なっています。
ワークショップの際に見せるサンプルを作るという意味もあるけれど、
ここは本人に確認してはいないけれど、
その作業を通じて自分の美をしっかり追求しているようです。
なぜなら時々自分の感じる美しさに話がふれた時、表情や声のトーンがあきらかに変わってとても嬉しそうな顔になるから。
ワークショップの場では
参加者のそれぞれの深度をじっくり見守っている。
決して放置しているのではない。
何か必要としていると感じた時に、
すっと入ってきて言葉をかけてくれたりします。
その人を見守りながらいろんな見立てもした上で、その人の中で起こるタイミングを見る、邪魔はしない、余計なことはしない、踏み込まない。
ここらへんが同じアートでもセラピーにはしない、たまちゃんの活動の大切なところだと思います。

表現は自己の表れでもあるので、作品を作ることと紙一重です。
地続きでもあるのでどこからがその人の課題でどこからが作品に昇華されるかはわからない。
分けることができないからこそ、ファシリテーターが線引きをしてファシリテーションをする大切さがあります。
たまちゃんは、自分のワークショップで扱うことと扱わないことの枠組みをはっきりと持っていて、そこらへんの加減が絶妙だといつもうなってしまいます。
ここらへんはまったくもって好みの問題や行う場の目的によって変わると思いますが
自分の扱う部分、もしくはやっていきたい領域で
ファシリテーターとしてどう在りたいか、ここら辺を講座でもみなさんと共有できたらと思っています。

あ、やっぱり長くそして熱くなってしまった!
とにかく、ファシリテーション講座、始まります!うれしい!
写真は久しぶりにくじらちゃん、うらら、羽地さんと直接会ってファシリテーター講座のミーティングをした時のくじらちゃんの板書。
メンバーの似顔絵が上達している!

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【講座は開講しましたが、ディスカッションはまだまだ終わりません! ④につづく】
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