アーツ・ベースド・ファシリテーター養成講座[第二期]に向けたディスカッション②
アーツ・ベースド・ファシリテーター養成講座の募集がスタートしました!
近年、教育現場のみならず、研修や組織開発、セラピー、コミュニティの分野でも注目されるワークショップ、ファシリテーション、そして アート。
二十年に渡りアートを基盤とした(=Arts Based )ワークショップを実践してきた
羽地朝和・岩橋由莉のふたりの講師が、アートを使った場づくり・ファシリテーションのエッセンスを全て教えます!
第一期を七月に終え、今回は十月からスタートする第二期生の募集です。
第二期は全回オンラインでの開催。それに伴い、各回の時間も第一期より延長します! さらに、絵の講座「イメージをプリズムに」でもおなじみの画家・田島環さんをゲスト講師にお迎えします。
詳細はこちら↓
二期を迎えるにあたって、フェイスブック上で講師の羽地朝和・岩橋由莉がディスカッションをしています。そのようすをnoteでもご紹介します。
前回①はこちら↓
(前回の続きから)
●岩橋由莉[9月26日 12:53]
羽地さん 度重なるいろんな投稿、ありがとうございます。
これは、お前もはやく書きなさいよ、というメッセージだとわかっていながらも、なかなか何を書けばいいのかわからなくなって詰まっていました。
先日研究所のミーティングでも、羽地さんの投稿の返事を書いてくださいと言われて、
「なんか、エネルギーが溜まってこないから書けない。事務局からということでなんか書いて」と返したら、くじらちゃんが
「羽地さんの最初の投稿は、ゆりさんの問われたことにちゃんと返答してないですね。
でもこれはゆりさんから投げかけた投稿なので、ゆりさんがそのことに関してなんらかの返答を返してあげないと私たちからどうこうできません。返答したら、そのあと事務局も引き取って次の手を考えることはできます。」
とスパっと言われたのでした。
ちぇ。(小石を蹴る)
とにかく今の私の体感を丁寧に拾うことからまずは始めてみることにしますよ。
まず初めに、「アート」という言葉を互いにどう捉えているのか、というところを整理してみます。
わたしは
アートは、そんなうすっぺらいものをひっぺ替えしてくれる
「なにぬるくなってんだよ!」と尖ってくる。
という言葉で表現しているし、羽地さんは
僕はまったく違う次元の視点をひらいてくれるもの、違う世界をひらいてくれるものがアートだと思っています。
と書いていて、ここで二人の体感がもう違っていますね。
アートは私にとって、ひっぺ返したり、突っつかれたりしているし、
羽地さんは違う視点や世界をひらいてくれるものなんだね。
もちろん私にとって違う視点を開くものでもあるし、羽地さんにとって突っつかれたりすることでもあるのでしょうが、
まず最初に使うここら辺の言葉から、二人の場づくりの違いが既に現れているような気がします。
そういえば、羽地さんがプレイバックシアターのコンダクターをする時には、語り手が話している世界とは違う視点を引き出しますよね。
例えば、
「その時、想像ですが、お母さんはあなたのことをどう思っていましたか」
「その時、猫はどう感じていたと思いますか」
「その時、月はどんなふうにあなたのことを見ていたでしょう」
とか。
語り手が見ていた側とは違う視点を想像させますよね。
まさしくその人が意識していない視点を開くことを場づくりでやっているようです。
プレイバックのコンダクターだけではなく、会社の研修のポイントを伺っていても、人に語らせる場を持ちつつ、違う視点でものを考えるような場を設定してそこから研修に入っていくのが羽地さんの持ち味なんだと思いました。
一方、私はどうかというと、ワークショップでひっぺがすのはさすがにそんなにないにしても、突っついたり、揺らしたりすることをよくやるなあと思います。
その後それをどうするかの統合はその人に任せて、その人が思い込んでるものや事柄を揺らして、そこからこぼれたものから対話の場を持っているように思います。
二人ともに共通しているのは、その人が意識はしていないけれども現れでているものを扱うことをテーマにしていますね。
そしてもっと大切にしているのは、その扱い方だと思ってます。
その人が無意識なものを出すにあたり、ファシリテーターとして、
どんな存在であろうとするのか、
その人から出たものをどんなふうに扱うのか
そこが重要だと思っています。
わたしがそこで大切にしたいのは「フェアであること」です。
私はファシリテーターとしているけれども、同時に場をその人のためだけという比重にはしないこと
そのことで扱われている本人もわたしも同等にいろんなことが言えること
アートを通してそんな場づくりをしていきたいと思っています。
羽地さんがそれを言葉にするとしたら、なんなんでしょうね。
声にアクセスしてしまうのはたしかに私の特徴ですね。
特に大人になると人はいろんな役割でもって固定した声の使い方をしています。
もしくはこんな存在でいたいという無意識の願いからくる声の出し方をしています。
人は語る言葉の意味に意識して、その言葉をどんな声で言うのか、に対しては割と無防備です。
わたしの場では役割の声を出すだけにとどめるの、もったいないなと思っています。
その身体は違う声も出るかも、
そんな実験を繰り返すのがわたしのワークショップです。
「安心・安全な場づくり」というのとは少し違うと思っています。
ここらへんをファシ講ではじっくり言語化したいですね。
声に関してですが
昔は具合が悪くなることがありましたが
今は具合が悪くなるほど自分の中に溜め込まないことができるようになりました。
自分の身体を通過させる、そんな感じです。
なので、いろんなお仕事に応用できるようになりました。
今興味深いのは、グリーフの現場と仏教の教えの現場がぶつかった時に
どんな言葉や声が生まれるか、を見るお仕事です。
人は今までにどんな人生を歩んできたか、声に現れてしまうなあとしみじみ思います。
久高島の方のお話はたまに羽地さんから出ますね。そんな方がいます、という情報くらいですが。
いつか、その方とお会いできるタイミングがあればと思います。
写真はミャンマーでご一緒した時、絵本のワークショップをやった時の場面です。
この子達の声は聞いていてワクワクしました。
●向坂くじら(事務局)[9月28日 17:35]
羽地さん、ゆりさん
事務局のくじらです。
お二人のやりとりをまずは傍観させていただいていたのですが、聞きたいことがあったらどんどん聞いていいとのことなので、割り込みさせていただきますね!
ここまでは、最初にゆりさんが発した「アートをどんなものと捉えているか」という問いを主軸に話題が進んでいますね。
ですが、もう一つゆりさんが発した「どうして(研修だけをやらずに)アートファシリテーター養成や、プレイバックをやり続けるのか」という問いはまだ未消化な気がします(わたしが生意気にも「羽地さんの最初の投稿はゆりさんの問いに答えていない」と言っていたのをゆりさんにバラされてしまいましたが笑、それはこのことです!)。
羽地さんの回答は、概略すると「研修の仕事もアートの仕事もどちらも大切であり、かつ通底している信念や技術がある」ということですよね。それはもちろんごまかしのない本当のことだと思うんですが、それでいてこの回答がゆりさんの問いに対して片手落ちだと思うのは、ゆりさんの「研修だけをやっていてもいいのに……」という意地悪な枕詞をほとんど無視しているところです。事実、羽地さんはこの問いを見たとき、「これは僕に喧嘩を売っているね!」と話していましたよね。
先にここからはわたしの勝手な想像であることを断っておきます。とはいえ、プレイバック・シアター研究所の事務局として二年間働き、研修とワークショップそれぞれの現場を手伝い、ワークショップ事業部の立ち上げと経過に加わっているからできる想像だとも思います。
ゆりさんの「研修だけをやっていてもいいのに……」という言葉の裏に隠されているのは、「効率よく稼げて、それだけやっていても食べていける研修だけを……」ということではないでしょうか。アートのワークショップは、最近注目されているとは思いますが、基本的にはわかりづらく、お金になりづらく、まだまだ実用的でない一種の酔狂と見られがちなのが現状です。そして、そんな一般論をいうまでもなく、研究所内の研修事業部とワークショップ事業部との収支の状況はもう、月とすっぽんなわけです。どっちがすっぽんかは言わなくてもいいですね。
「研修とワークショップ、どちらも同じくらい大切です」というのは、正直羽地さんを見ていればすぐ伝わってきます。けれども、なんたって不可解なのがまさにその「同じくらい」というところです。上記のような状況でありながら、どうしてなお「同じくらい大切」と言えるのか、というところに、ゆりさんの問いの根幹はあるような気がします。
さらにこの問いの意地悪なのは、そりゃあ、お金を稼げることがすなわちすばらしいこと、意義のあることではないというのは、誰でもなんとなくわかっています。それでもなお、その、なんとなくわかっているところ、すなわちわざわざアートのワークショップを作りつづけていく理由を言葉にしてくれ、というのがゆりさんの要請だったと解釈しているのですが、どうでしょう、見当違いでしょうか。
このことが特段気にかかるのは、わたし自身にとっても大きな問題であるからです。
研究所で働いて二年と書きましたが、大学を卒業して詩人を名乗ってからは四年あまり経ちます。その間なにをしていたかというと、つねに仕事を求めてさまよっていました。就職の話は何度かありましたが、自分で辞退してしまったり、クビになったり、あれこれです。もちろん詩人として食べていけたら一番いいんですが、現代日本で詩人として食べていけるのは本当に上位数%でしょう。
ですが、詩人として、かはともかく、とにかく自分の過剰なこだわりやペースのようなものに矛盾せずに仕事をしていくことは、どうしても諦めたくないと思っていました。かつ、現代において、詩を書いて発表することだけが詩人の仕事ではないとも思っていました。
会社をクビになった二日後にわたしは研究所の扉を叩き、羽地さんに拾ってもらうような形でいまの仕事をスタートさせていただいたわけですが(その節は本当にありがとうございます)、それでいて、アートの仕事はお金になりづらい、ということは、いまだわたしにとって喫緊の課題でありつづけています。わたしはワークショップで食えているような顔をしていますが、実際のところは違います。研究所の財政上ではワークショップ事業部は完全に養われている、悪くいえば依存をしている。そのことがときにもどかしくなります。わたしがいまいるところは、羽地さんという研修とワークショップがそれぞれできる人が、たまたまワークショップのほうをできのわるい息子のように愛していたために生まれた、隠れ蓑のなかのようなものであるとさえ思います。わたしが社会のなかでアートやワークショップを仕事にできているかといわれると、どうにも違う気がするのです。
話が長くなってしまいました。
と、いうことで、わたしから改めて聞きたいのは、「(それぞれにとってアートとはどういうものか、というここまでの議論を踏まえた上で)アートのワークショップを仕事にするとはどういうことか」ひいては、「どうしてワークショップが存在したほうがいいと思っているのか」ということです。たとえばゆりさんのいう「フェアな場」をつくっていきたい、というのはつまりはなぜなのか、というところを聞いてみたいです。
ファシリテーターを養成して世に放っていく上でも重要な問題だと思っているのですが、いかがでしょうか?
よろしくおねがいしまーす!
●羽地朝和[10月3日 12:52]
くじらちゃん そしてゆりさん
投げかけてくれた問いの返事が遅くなりました。この週末に取り掛かっていた再来週の研修のテキストを昨夜校了して、くじらちゃんの問いに向き合うことに取り掛かかっています。とは言っても、研修をやりながらもずっと頭の片隅でこの問いは繰り返していたのですよ。
今日は日曜日の午前中、午後からは“けんけんを想うプレイバック”があります。僕の日常はこんな感じで、平日に企業研修を担当して、週末にプレイバック・シアターやワークショップを行う、ここ何年も、いや20数年この生活が続いています。それに加えて心身堂を含めた会社の経営に取り組んでいますが、経営者&管理者の仕事のことはここでは置いておいて、自分自身が自ら担当する仕事として、企業研修とワークショップを行うことは、ごく当たり前のこととして続けてきました。改めて研修の仕事に専念しないでワークショップもやり続けているのはどうしてか、という問いに対してどのように答えれば分かってもらえるかを考えています。そして、アート(くじらちゃんにとっては詩の活動やワークショップ)で食べていく! に少しでも役に立てればいいなと思います。
まず、僕のこれまでの経験を語ることから始めます。
僕は、防衛大学校を卒業して自衛官の道を辞し、(株)社会産業教育研究所に入りました。自衛隊を辞めても何を仕事とするかはなく、その状態で当時渋谷にあったオフィスを訪ねて、所長の岡野先生に「研究所に入れてください」と直訴したのですが、その時のこととくじらちゃんが「相談したいことがあります」と僕の前にちょこんと座って直訴したことが重なってきます。ちなみに、僕が会社の名前の最後に「研究所」をつけているのは、(株)社会産業教育研究所のことをどこか踏襲しているのでしょう。今だったらそれを素直に認められます。岡野先生は堀の中から出所したてで社会のことを何も分かっていない僕を拾ってくれて育ててくれました。僕の恩師の一人です。
ただゲシュタルトセラピーそして交流分析を極めた岡野先生は、プレイバック・シアターのことは最後まで認めてくださらず、そこに反発をして僕は30歳で研究所を独立しました。「靴の上から足をかくようなプレイバック・シアター(岡野先生はよくこの言葉でプレイバックを評していました)でやっていけるわけがない」という言葉への反発から、「プレイバック・シアターで食べていく!」と息巻いてわざわざ「プレイバック・シアター研究所」と標榜したのです。
岡野先生の企業研修は超一流でした。そしてゲシュタルトセラピーと交流分析を合わせたワークショップは素晴らしかった。神業という表現しかない場を作っていました。お亡くなりになって15年たちますが、今でも多くの当時の参加者がそのことを懐かしく語ります。そして岡野先生の意志を引き継いで「TA研究部会」という組織が今でも継続して運営されています。ちなみに「TA研究部会」は20代の頃の僕が「岡野先生のもっている経験や知識、技を探求する」というねらいで創立しました。今は、僕が創立した頃の参加者の方々が運営され、発展されています。長々と師匠の思い出を書いていますが、師匠の唯一無二の企業研修とワークショップのスタッフとして20代をすごしました。岡野先生のワークショップは心理療法(セラピー)としてのもので、僕がプレイバック・シアターの中に見出したアート性とは無縁のものでしたが、30年近く僕も研修とワークショップをやり続けています。未だ足元にも及ばないことを悔しいけれど認めます。
ですから、企業研修とワークショップをどちらも行うことは僕にとってはごく当たり前のことで、そのモデルとなるのが岡野先生です。一方で岡野先生に示したかった(理解してもらいたかった)プレイバック・シアターが持つアートの要素、コミュニティへのアプローチ、を世に認めてもらいたくて「プレイバック・シアターだけをやって食べていく」という志の元に「プレイバック・シアター研究所」として独立して、当初はプレイバック・シアターのワークショップと様々なところからの依頼や海外などに行っての活動をやっていたのですが、ある研修講師の人から「自分の研修の中に羽地さんのプレイバック・シアターを入れて、体験を深めたいのだけれど、一緒にやらないか」と声をかけてもらい、3日間の合宿研修を一緒に担当したのが、企業研修講師の始まりです。独立して1年が過ぎ、プレイバック・シアターの収入だけでの暮らしの中では講師謝礼はとてもありがたかったです。そこから研修の仕事が少しずつ増えてきて、今に続いているのです。
ですから、僕にとってはワークショップそして研修の仕事をやることは、遠く離れた師匠の背を追いかけて歩む途上の道のようなものです。
これではまだ、「アートで食べていく」ことに対する答えにはいたっていませんね。少し長くなりました。そろそろ午後のワークショップが始まるので、この投稿はいったんここで終わらせてもらいますが、最後にアートのワークショップだけで食べていくというくじらちゃんの志は、いまだ道半ばの者としてよく分かります。僕の中にもその灯は燃え続けています。
[10月4日 18:32]
くじらちゃんへ
昨日の返事の続きを書きます。
企業研修とプレイバック・シアターとは同じくらい大切の「同じくらい大切」とどうして言えるのか、をゆりさんは問うていて(くじらちゃんもかな?)、それに応えていない、という指摘がありましたね。この問いは「お父さんとお母さん同じくらい大切」とどうして言えるのか、という問いと同じです。比較するものではありません。それぞれ大切だとしか言いようがありません。
そして僕は、仕事というものは「自分が持っているモノを使って社会や誰かの役に立つこと」「自分がやりたいことで社会や誰かの役に立つこと」の二つだと思います。「モノ」というのは「才能や能力」と説明できますが、僕がしっくりとくるのは「神様がお与えになったモノ」です。神様が社会のために使いなさいと与えたものが「才能や能力」ではないでしょうか。僕には、企業研修とプレイバック・シアターの能力と才能を神様がくださり、それを使う機会があるのでそれぞれ使っている、これが僕にしっくりくる説明です。
そして自分がやりたいことで社会や誰かの役に立つこと、が仕事であり、人生の幸せの一つだと思うのですが、僕が最もやりたいことはプレイバック・シアターやアートのワークショップです。そして徐々に僕が研修に費やす時間が多くなり、自分のエネルギーを十分に注げないので会社としてワークショップ事業部として行っています。ですからこの一年、ワークショップ事業部が行うワークショップは随分と種類も数も増えました。僕はとても嬉しいです。
「どうしてワークショップが存在したほうがいいと思っているのか」というくじらちゃんの問いにも答えましょう。それは「僕がやりたいから」「それで人や社会の役に立っているから」です。
そしてワークショップ事業部の財政面での課題は、くじらちゃんの指摘のとおりです。経営者として歯痒いところで、くじらちゃんが堂々とできるようにします。この課題を解決する為に事業部長としてゆりさんを迎え入れました。ゆりさん、うららさんそしてくじらちゃんと一緒に知恵をだしてこの課題に取り組んでいきましょう。
さてさて、「アートのワークショップを仕事にするというのはどういうことか」の問いはゆりさんにも投げられていますね。この問いは、正にアートのワークショップ一筋で生きてきたゆりさんが、これからの若人に対して答えてあげるべきことであり、そしてこの講座の参加者のみなさんも知りたいところだと思います。
●岩橋由莉[10月6日 23:13]
「表現教育家」と名乗っていますが、そんなふうな職業は日本にはありません。
30数年前、表現教育を教えてくれた玉川大学の先生ですら、「職業としてやれるなら俺がやってるよ」と言われました。
小学校や幼稚園、保育園の先生になってその現場で「ドラマ活動」をやるというのが、その時の定石でした。
でもわたしはなんの根拠もなく「表現教育家」という職業がやれると思ったし、この仕事はこれから社会で必要になる、と思ったのでした。
多分私が受けてきた教育からそう思ったのだと思います。
根拠ない自信はあったものの、技術も経験もないのですから
すぐに仕事としてできるとは思わなかったです。
だから、卒業して2年間でものにならなかったらやめるというリミットをつけて、とにかく現場に出ました。
大学4年生で就職活動は一切せず、その代わりに表現活動をされている方を探してそのアシスタントにつき始めました。
経験値が欲しかったのでお金は二の次でした。
私がその当時したことは、表現の現場を作っている人が何をしようとしているのかをくみとって、そのことをいちばん身近で経験する。願わくば、その人の助けになることが少しでもできるようになること。それしかできませんでした。
それから表現活動してる人の記録を読んでは、気になる活動をしている人に会いにいくということを行い、許してもらえれば、その活動に参加させてもらいました。
幸いにもその時に出会った大人たちが面白がってくれて、いろんな仕事に参加させてもらえたし、仕事の機会をいくつかくれました。
でもなんの技術もなく丸腰で子どもの表現活動に赴く私は、いつも挫折の繰り返しでした。
なにがうまくいって何がダメだったのか、そんなこともわからない。
仕事をいただいてもその先駆者はほとんどいないので、必死でその日その日を自分で考えたものをやりました。
その時に無茶な仕事もいっぱいやりました。無茶というのは自分にキャリアも技術もないのに仕事として受けるということです。
100人以上の子どもと一緒に表現活動をする。
児童劇団の巡回公演について行って、芝居を見た後の子どもたちと表現活動をする。
高校演劇の合宿で即興劇のパフォーマンスを上演する。
何ができるかわからない私は、その時依頼されたものは基本全部を引き受けました。
表現教育を仕事にする
全部をそこにかけていつのまにか10年近くたっていました。
それで身体が壊れました。それまでにも何度も身体が悲鳴をあげて
とうとうまったく頑張れなくなって、和歌山に一度戻ることにしました。
和歌山に戻ってきた時は数年仕事をして身体が元気になったらまたバリバリ仕事しようと思ってました。
腰掛けのつもりで「子どもの表現活動の単発の仕事が何かないですか」と行政を回りました。
すると、「子どもの活動の仕事はないけど、元気な高齢者に何かできないか」といわれ、今度はやったことのない高齢者との活動を依頼されるようになりました。
そこでも挫折の繰り返し。
なんとか成立するようその時その時で必死で仕事をしていたら、あっという間に今度は20年以上経ってました。
20年以上続いてるものもあれば、1回で終わった仕事もあります。
自分で終わらせた仕事もあるし、切られた仕事もある。
そんな繰り返しの中でここまできたのでした。
まあ、そんな人生なので、「アートで仕事をする」なんてえらそうに誇れるようなものは何もないです。
参考になるどころか多分反面教師にはなるだろうと思います。
ほんと、ばかだなあ、考えなしだなあ、と。
それは仕事だけではないですね笑
変わらない。
今のくじらちゃんのほうがよっぽど考えてちゃんと仕事してるし、人生設計できてるよ。
そんな中でも、自分の身体で獲得してきたものはあります。
最近の仕事はそれを惜しみなくどこまで放出できるかということ。
こんな人でも生きてこれたのは、人のおかげなのです。
だからできるだけお返しがしたい。
これからもどんな仕事でも引き受けたからには、骨身を惜しまず、精一杯やりたいと思います。
さて、そろそろファシ講のことへ戻りましょうか。
ファシ講では、参加された方が最終的に自分のワークショップの現場を持つきっかけになることを念頭においています。
そこでは羽地さんと私がワークショップで習得してきたものを惜しみなく放出します。
他の養成講座ではあまり言われないこととしては
アートワークショップの危険性
また巷でよく使われている言葉や行為を吟味することもします。
例えば、「安全・安心」「共感する」などの言葉でくくられるものたち。
羽地さんは場のまとめ方がうまいです。これは褒め言葉です。
みんなが来てよかった、お土産として持って帰りやすいような示唆を与えるのがスマートでニクいです。
そしてそれはファシリテーターとして必要不可欠なこと。
私も毎回とても学びます。
一方、私は、前に書いたようにフェアであろうとします。
これは私が感じたことを骨身を惜しまず出して、でもそれがその時にわかってもらえなくてもいい、と思うので少し不親切です。
すぐわかったような気持ちにさせないぞ、という気持ちでやってます。
けれど、対話する時間はたくさん持てたらいいなと思ってます。
わかる、わからないは別として。
さて、まだまだ書こうと思えば書くことができますが エンドレスになりそうなのでこの辺にしておきます。
くじらちゃんやうららは事務局でもあり、企画者でもあるけど、
第1期生として参加もしてくれたよね。
なんか今手元に残ってるものはありますか?
そんなこともどこかで聞きたいな。
写真はミャンマーのお店でみんなで死んだポーズを撮ったところ。
なんの意味もありません。
この頃私の流行りは、いろんな場所で死ぬことでした。
【③につづく】
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