プレーリーダーって何をしている人? 2/
プレーリーダーが実際に環境づくりとしてやっていることを、私のこれまでの経験をもとに順不同で書き連ねています。
以前の記事はこちらから。
プレーリーダーって何をしている人? 1/
【環境整備に関すること】
《場を開く・設える》
《つくる》
《調達する》
《危険を管理する》
《場を閉める》
【子どもとコミュニケーションをとる】
冒険遊び場は子どもの遊び場であり、居場所です。子どもに選ばれる場所となるように、子どもとコミュニケーションをとることはプレーリーダーの大きな役割の一つです。当然と言えば当然ですが、その中で結構いろんなことを考えて関わっています。その根底には、その子のことを知り、その子がありのままの自分で過ごせるように、そんな思いがあります。
《遊ぶ》
冒険遊び場は「遊び場」なので、「遊ぶ」こともプレーリーダーの大きな役割の一つです。
ただ私は基本的に、大人は直接的に子どもの遊びに関わりすぎない方がよいと考えています。皆さんがご自身の子どもの頃を思い出してみてください。お友達の家などを除けば、あえて大人がいる場所では遊んでいなかったのではないでしょうか(学童保育などの場合は大人がいることが前提になってしまいますが)。
本来子どもの遊びの世界に大人は不要で、求められた時だけ助けるという関係の方が、子どもが自ら育つ機会が保障されると考えています。
大人という生き物は子どもの「やりたい」(遊び)を止めがちです。でもそれは仕方ない部分だとも思っています。経験がある分、危ないことや失敗しそうなことがわかってしまうので、ついつい先回りして声をかけてしまいます。その根底には優しさがあると思います(中には、何か起きた時に自分が対応しなくてはいけないからという気持ちもあるでしょうが)。でも、子どもの成長に危険や失敗は必要な要素なので、できるだけ見守ることが大事です。しかし、それにはそれなりに知識というか慣れも必要となります。蛇足ですが「最近の若い者は…」というくだりは古代エジブトの頃からあったらしく、先に生まれた人は後に生まれた人に何かを言いたくなるのが人間という生き物の性なのかもしれません。
また、たとえ大人が止めなかったとしても、大人がいることで、子どもは顔色を気にして思い切れない、必要以上に頼ろうとするといった反応を起こしたりします。その状態が続くと子どもの無限大の可能性は蓋をされたように伸びていかなくなると考えます。
プレーリーダーはどうあがいても大人です。大人である自分が子どもの遊び場にいる意味を考え、子どもの可能性が遊びとともに広がるように、環境要素であることを自覚した上で遊ぶのです。
[遊びのきっかけとして]
特に初めて冒険遊び場にきた子どもはどうやって遊んでいいか分からず固まってしまうことがあります。そんな時にちょっと遊具や道工具を使って「こんなことができるよ」と身体で示したりします。
他にも、例えば水遊びや泥遊び、木登りなど、一般的な公園ではなかなかできない遊びを前にすると「やっていいかどうか」に迷う子どももいます。また、「やらせていいのか」と考えてしまう保護者もいます。そこで、心理的なハードルを下げるために、大人であるプレーリーダーが嬉々として遊ぶ姿を見せることもあります。
また、プレーリーダー自身が「面白そう」、「楽しそう」と思うことをやってみることもあります。これまでの例もそうですが、子どもに限らず大人も、誰かがやっていることをやってみたくなることはよくあると思います。
そういった遊びのきっかけ(刺激)をつくることを総じて私は「選択肢(あるいは可能性)を提示する」と表現しています。やるかやらないかは本人次第ですが、「そんなことできるんだ」という刺激が遊びの可能性をひらくと考えています。
[空気をつくる]
[遊びのきっかけとして]の一部といってもいい内容ですが、大人が嬉々として遊んでいる(それもいろいろ失敗しても笑いながら遊んでいる)と、子どもも安心して遊べます。だから時には敢えて馬鹿馬鹿しいことや、ちょっと無謀と思えるような挑戦をしたりします。
また子どもがはじめた面白そうな遊びに乗ってみたりもします。「面白そう」が膨らむと、みんなの「やってみたい」の気持ちが溢れることを知っているからです。一時期、フォロワーの重要性を示した動画が流行りましたが、あれを見て、遊びもそうだよなと思った記憶があります。
私の友人の元同僚がプレーリーダーの大事な素養に「子どもの面白そうを面白がる人」と言っていますが、そういう人がいることで子どもはより自分を出してもいいと思うようになります。それが広がっていってその場の空気になっていくのだと思います。
[子どもとつながる]
子どもは常に大人を観察していて、時に我々を試してきます。例えば、悪口を言ってみたり、軽く小突いてきたり、繰り返しいろいろなことを要求してきたりなどなど。子どもに限らず、人はありのままの自分を受け入れてくれる人を常に求めています。子どもの場合は、それがある意味素直に出てくるのだと思います。「この人はどこまで私のやりたい気持ちを受け入れてくれるのか?」と。
多分、生物的な本能からくるものでしょう。人間は生まれ落ちた瞬間から、他者(年長者)の支援がなくては生きていけません。つまり年長者に気に入られないと生きていけないのです。
「遊び」は「やりたいことをやること」、つまりは「ありのままの自分」の表現そのものです。だから対等な立場で遊ぶ大人とは、仲間として接してくれます。大人であっても遊び仲間の前だから、子どもは安心して自分のやりたいことに専心できるのです。
加えて、信頼が深まると時に悩みなどを話してくれることもあります。その悩みの解消の力になれるかはケースバイケースではありますが、それでも悩みを打ち明けられる他者(それも大人)が一人でも多くいることは、子どもたちの人生にとっては大切なことではないでしょうか。
逆に、遊びを止める大人ばかりがいると子どもはその人の顔色を伺うようになります。そしてそのうち遊び場に来なくなります。プレーリーダーがそんな状況を生み出すとするならば本末転倒です。
[遊び仲間として、時に強敵や好敵手として]
[子どもとつながる]の中でも少し触れましたが、子どもは対等な立場で遊ぶ大人は仲間として接してくれます。そして遊びは仲間がいる方が遊びがより楽しいものになることは多いです。プレーリーダー自身が自分の欲求の赴くままに無理に仲間に入ろうとするのはいただけないですが、子どもから求められる時には遊び仲間の一人として一緒に遊びます。
あと、例えば多くの冒険遊び場で人気があるベーゴマなど、勝負の要素が強い遊びの場合、強敵や好敵手として立ちはだかることもあります。もちろん、逆に雑魚キャラとしてあしらわれることもありますが(笑)。強い相手がいることでその遊びが盛り上がることは多いですし、プレーリーダー自身も勝負が楽しいです。私も家で修行していた時期がありました。
さて、ここで少し根本的なことを整理しておきます。
私は遊びを「やりたいことをやること」と定義しています(以前に書いた記事はこちら)。では、役割としてやる「遊び」はこの定義に当てはまるのか?
「遊び」という言葉の整理はまだまだ難しいなと感じながら、現状、心の在り方によってくるのだと考えています。要は「子どもの「やりたい」を広げたい、支えたい」という思いがそこにあるかということです。それがプレーリーダー自身の「やりたい」ことになっているのであれば、やはり「遊び」と言えるのだと思います。そもそも自分自身が面白くないことは、あまりやろうとは思いませんし。
少し話を発展させると、例えば鬼ごっこなどで子どもたちが結託してプレーリーダーだけを徹底的に陥れようとすることもあります。私も経験がありますが、あまりにも続くようであれば私はその遊びから抜けます。言ってしまえばそれはイジメのようなもので、たとえプレーリーダーであっても仕掛けられた方は気持ちがいいものではありません。遊び仲間というのは、そういう関係ではないと思うのです。
一緒にいて面白いかそうでないかも含めて、自分の気持ちも大事にするようにしています。そうしないと相手の気持ちも大事にできないからです。ただ、その時にそういうことを仕掛けようとする子どもの気持ちまでも想像できるかが求められます。単に軽い気持ちで陥れようとしているのか、あるいはなんらかの感情の裏返しなのか。遊びの中では本当に様々な感情や想いが動いています。プレーリーダーは遊びを通して、子どもの気持ちと向き合っているのです。
最後にプレーリーダーも遊びますが、子どもだけの遊びの時間・世界も大事にします。最初に「本来子どもの遊びの世界に大人は不要で、求められた時だけ助けるという関係の方が、子どもが自ら育つ機会が保障される」と書きましたが、これはプレーリーダーであってもそうです。きっかけをつくったり、仲間として混ざっても、自分がいなくても遊びが続くようであれば、すっと抜けるようにしています。逆に遊びに残るのであれば、相応の考えをもって残ります。たまに「超楽しい!」ってだけで残ってしまうこともありますが(笑)。
《挨拶する》
「遊び場」なので《遊ぶ》を先に書きましたが、子どもがやってきたらもちろんまず挨拶をします。初めて来たであろう子どもには、合わせて簡単にどういうことができる場所なのかを説明したりもします。
常連の子たちとは「オッス!」といった気軽な感じだったりもしますが、いずれにせよ、この場所が子どもの場所であること、子どもが「ここは自分がいていい(拒否されない)場所だ」と感じられるように、そんな気持ちも挨拶に込めています。
《話す》
他愛もないことから、時には学校や家庭の相談まで、いろいろなことを話します。プレーリーダーと話すためだけにやってくる子どももいます(話すことをしたい、広くと捉えると遊びと言えます)。誰かと話すことで、あるいは「この人」と話すことで満たされることがあるのは、子どもも大人も変わりません。話の中身も大事だとは思いますが、上手に話すことよりも、その子の話したいという思いをありのまま受け止められるかが大事なのだと思います。
《ただそばにいる》
ただ誰かにそばにいてほしい。そんな時があるのは、やはり子どもも大人も変わりません。あるいは、幼児だと近くでずっと見ていてほしがったりすることもあります。ただ横に座って過ごす、そんなコミュニケーションを取るときもあります。
これら以外にも、じゃれられたり、一緒に考えたり、時に何かを教えたり、様々なコミュニケーションがありますが、基本は子どもの思いを受け止めること、そして子ども自身の育つ力を信じ、下手に大人の思惑を押し付けないことを大事にしています。
先にも書きましたが、遊びの中には本人が無意識なものも含めて本当に様々な感情が入り混じっています。思いを受け止めると書きましたが、そんなに簡単なものではないです。プレーリーダー自身も人間である以上感情が動きます。だから、プレーリーダーは自分自身と向き合うことを求められる仕事でもあります。
子どものどんな言動に自分の感情が動くのか、その感情は自分のどこから生まれてくるのか。それを認識しておくことが大事です。そうしないと、自分の側の問題を子どもの問題と混同してしまい、子どものありのままを否定したり、子どもの「やりたい」気持ちを押さえつける側に動くことがあるからです。そのためにプレーリーダーは日々の振り返りを大事にします。これについてはまた別の項目で書きます。
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ここまで何度も修正をかけていますが、それでも言葉が足りていない気がします。また修正するかもしれませんが、ひとまずここでアップします。
次は、大人とのコミュニケーションについて書きます。