石と自然

昔は「自然」と「人間」の区別が曖昧だった。芭蕉は「閑かさや、岩にしみ入る、蝉の声」と俳句に説いた。「閑かさ」という人間の概念である言葉を「蝉」と調和させて表現した俳句からも、「人間」と「それ以外」の区別が曖昧だった上記の題目が理解できる。古来の人々は草花を一つの生命として見立てたり、説法して頷かせた。

しかし、現代の人々にとって人間と自然の区別は生きているものと、死んでいるものでしか無くなってしまった。自然を差し置いて、人間の物質的精神が上位に固定されてしまったのだ。「石」もその例外ではなく、草花や樹木は現代に置いても比較的に生命あるものとして通っているが、石は単なる人工物の材料と見做される傾向が顕著に強いように思われる。ここに人間の二元論的思想の傲慢が感じ取れる。

鈴木大拙は「東洋的な見方」で東洋思想と西洋思想の相違点として、「二元性」を挙げた。簡潔に要約すると、「西洋思想は”自己”と”他人”など、全てを二元論に分解した上での思想であるが、東洋思想は自己と他者などの概念が曖昧であり、物事がまだ二分しないところから考え始める」とある。ここに、日本を含めた東洋思想の至宝な点が存在するのではないだろうか。それは人間と自然の関係についても同様であり、現代の環境保護の観点からも重要な哲学ではありますまいか。

夏目漱石は、自らの短編小説の一つである「夢十夜」で彫刻とは形を鑿で掘り出すものではなく、始めから埋まっている形を掘り出すものという独特な芸術観を語っている。即ち、石についても掘り出されるときから、既にただの石ではなくなっている。それが我々の身近に据えられると、自分の友人となってくれる。その石が何かに似ているというのではない。日本人は、自然そのままの石を愛する。

世界各地に石を材料とした建築物は存在するが、自然的な趣きは感じない。万里の長城は戦争用であったし、エジプトのピラミッドは奴隷に石を積ませて建造したものである。それらは、ダイナミックであり、ある種の「圧倒される」気は感じるが、日本的な「自然そのままの形」を愛する思想はないように思われる。日本では石が削られずに、そのままに建てられ、寝かされ、転がされた。日本は石を生命として見る。このような、日本的な石観に代表される「生命」と「自然」の統一観は、現代の実質主義的な風潮が蔓延する社会に「一石」を投じるべく、大切な思想となるのではないだろうか。

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